iPod轟沈 

ほとんどの場合、CDで音楽を聴いている。
カセット・ウォークマンの昔から、
屋外で音楽を聴く練習とかしてきたけれど、
結局適応できないでいる。

打ち合わせなどで音を外に持ち出す必要があるときは、ハンディ・レコーダーを使ってる。一応mp3も再生できるようになってるのだ。

しかし考えてみれば、べつに自宅でひとりiPod聴いてたって悪いわけはない。
音質はCDのほうが良いにしても、
さぞかし便利であろうことは、はた目にもよくわかる。

それに、欲しいCDが手に入らないことも多くなってきている。
Amazonでも専門店でも売ってないから、仕方なくiTunesで買ったりしている。なので、パソコンのiTunes→オーディオ・インターフェースという流れで聴くことも増えてきた。

さらに言えば、長距離移動の電車の中で、オバチャンのしゃべり声や、オジサンがスルメを噛む音から身を守る方法が、
耳栓
というのも、何とかならないかと長年考えてきたことである。

そこで考えたのが、
・iPodを買う。
・ノイズキャンセリングヘッドフォンを買う。
これらを使って、長距離移動中は騒音から身を守るために、静かなノイズミュージックなど聴いてやり過ごすのはどうか。たとえばSvartsinnさんみたいな音楽で。
屋外で音楽を聴く習慣が身につかないのだからiPodだけ買ってもあまり使いでがないし、ノイズキャンセルヘッドホンだけを耳につけてても何か音を鳴らさないと外部の音はマスキングできないはずだ。だからiPodとノイズキャンセルヘッドフォンを、セットで買う。

うん。これなら、買ってもいい気がする。
かなり消極的な買い方だが、これで世の中の趨勢を多少なりとも体験できるなら、安いもんだろう。

よし。買おう。決めた。
というわけで、ある程度ネットで下調べしてから、電器店へ。

いつもの電器店のかんじ。顔が歪むほど劣悪な音がギシャギシャ鳴ってる。
なんのこれしき。
スピーカーの口径が小さくなって、音のクセのピークの周波数が上がってることなど、数年前から熟知していることだ。てゆうかこのギシャギシャ音に対してどういう態度を取るか、職業的に常に相対しているところである。

iPod売り場に到達。
なるほど。この容量にこの重さにこの機能でこの値段ね、さて、買うか、と思ってたところに、店員さんがずいっと近寄ってくる。
「いかがですかっ!?
いまっ!アイポッドにっ!
無線LAN機能を付けるとっ!
なんとっ!つけるだけでっ!
こんなに値引きをっ!
こんなにもっ!もう!タダ同然の値段にっ!」
‥‥‥(えーっと、それってiPodをiPhoneみたく使えるようにするために、何か別のギアを買うってことで、しかも月額料金とか取られるんじゃ)「‥それって月額とか‥」
「そうですっ!料金プランは○○プランと○○プランと」
「結構ですいりませんありがとうございます」
ほかのお客さんも「いまっ!無線LANをつけるだけでっ!」と叫ばれて、嫌そうにしてる。

なんのこれしき。
iPodをiPhoneみたいにするやつを売るのに、ノルマとか課せられてるんだろうから、その店員さんを怒ったって仕方ないし、こちとら昔のアキバの生き残りである。オタクの聖地と呼ばれる前の、吸殻だらけのアキハバラ。小中学生の私に向かって、「ボクぅ、冷蔵庫安いよ〜?冷蔵庫安いっつってっだろー無視してんじゃねーよ!」って唾を吐く呼び込み店員とかが路上に立ってたアキハバラ。私はあそこをサバイヴした世代だ。電器屋さんで欲しくないものをずいずい勧められたくらいで、めげたりしない。

店員さんのスキを見はからって、iPodの販売カード(「これをレジにお持ち下さい」ってやつ)を手にして売り場を立ち去る。

ヘッドフォン売り場へ。
そうそう。こうしてずらりとヘッドホン・イヤホンを並べて、試聴できるようにしてあるからここへ来たんだよな‥‥あれ?
耳につけてもラジオも音楽も聴こえてこない。
あー、うんうん。よくある。
試聴用に並べてあるけど、鳴らす機材の調子が悪いのね。きっとウラに回って機材の様子を見る余裕がないとかなのね。‥って、あれ?
端子が出てる。
見回すと、全ヘッドフォンの端子が、棚の前に出てる。
これ、試聴用の台を使ってるだけで、試聴する仕組みを装備せずに、ただ単に商品を並べてる‥‥

‥なんのこれしき。
オレは今日、iPodとノイズキャンセルヘッドフォンを買うためにここまで来たんだ。
音が出なくっても装着感は試せるし、よく見ればほら、ノイズキャンセルヘッドフォンには電池が入ってて、ノイズキャンセル機能だけは試せるじゃないか。
メイン・ヘッドフォンとして買うわけじゃないんだ。モニター用じゃないんだ。音質は真剣に考えなくても良かろう。だからこれでも試せる。よしよし。

ふむふむ。なるほど。この製品にしよう。商品カードは‥あれ?ない??これどうやって買うの?ああ、各製品に番号シールが貼ってある。この番号を店員さんに告げるのね?よしよし。番号憶えた。

iPodの販売カードを持って、レジへ。
「いらっしゃいませ」
「このアイポッドとですね、ヘッドホンの53番を下さい。」
「は??」
「え?」
「なんの何番ですか?」
「ヘッドホンの、53番です」
「‥‥(虚空を見つめている)」
「‥‥あのですね、ヘッドホン売り場にですね、レジに持ってく販売カードがなかったんです。で、番号が貼ってあったんです。それが、53番だったんです。」
「‥‥少々お待ち下さい‥」

なんのこれしき。
この店員さん、「研修」っていう腕章してるじゃないか。

やがて、別の店員さんがヘッドホン売り場に歩いていく。
別の店員さん、売り場でなんだかおろおろしている。

幸い、レジで人を待たせてはいない。
私もヘッドホン売り場へ行く。
貼ってあるシールを指差して、
「この53番です」
「あぁ‥」
この店員さんも、ヘッドホンに商品番号が振ってあることを今はじめて知ったご様子。
「少々お待ち下さい。」おろおろ去っていく店員さん。
はい。待ちますよ。


‥‥3分‥‥5分‥

‥‥10分‥‥

「あんの〜‥‥おとーりよーせにーなるーんですーけどー‥」

「‥じゃぁ結構です。
先ほどレジに出したぶんも、まだレジ打ってないですから、キャンセルして下さい。」

というわけで、手ぶらで帰ってきました。

さて。
轟沈したのは、お店でしょうか。私でしょうか。

いや、どうしても欲しいとか、どうしても必要とかなら、
家に戻ってすぐにでも通販サイトに行きますけど、
ちょっと、心が折れました。

そういうわけで、
iPodを持たない暮らしは、まだ続くのでした。

快復したら、もっかい考えます。
追記/補足を読む

無限にA=A´、及びそれ以外 

あたりまえと思っていることなら、
かなりの事が当てはまる。

たとえば仮に、そのあたりまえのことを、A=A´ とする。

「A=A´。あたりまえじゃん。」とか思う。

そのうち、
「うわー。あたりまえって思ってたけど、
ほんとにA=A´なんだな。」
って思うような体験をする。

そうやって、
「みんな当たり前に思ってるけど、
じつはA=A´って、すごいことなんだよな」
などと思いながら歳月を重ねていく。
歳月を重ねていくうちに、ある日突然、

「何てことだ!A=A´じゃないか!!」
と愕然とする事態に直面する。

A=A´のところに、いろいろ当てはめてみるといい。
「青空は、青い。」
「ものは、こわれる。」
「ひとのことは、よくわからない。」
「ドとミとソを同時に鳴らすと、ドミソの和音になる。」
「自分はいま、生きている。」

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修証一如:
悟りと修行ってのは、違うもんではなくって、同じものなんだ。修行を始めたら、それはもう悟ったってことなんだよ。

証後之修:
悟りってのは、果てがないもんなんだ。だから、悟ったからって、修行を怠ってはならないんだよ。

(以上、舟沢が勝手に意訳)
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そういうわけで、
時折自分の書いた昔の文章を読み返してみて、
若いなあ、と今の自分が思ったとしても、
今思うことと、文章上は大して変わらなかったりする。
なので、推敲はするけど、あまり削除はしない。

このへんを考えると、故・河合隼雄氏はとても巧く文章を書く人であった。
人によっては読んでて失笑するくらい、平易なことを書く。
小学生でもすらすら読めるくらい、平易に書く。
しかし内容は、わかればわかるほど、おそろしい。

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同時に、上記のような果てしなさに当てはまらない事柄にも、しばしば出くわす。
すなわち、まるっきり無知だった事柄。
それを知ることは、素晴らしいことでもありうるし、
残念なことに、耐え難いことでもありうる。
そういえば、歴史上の禅僧はしばしば、
「悟りなんかに、大した価値は無い。」
みたいなことを口にしているのを読むことがある。
あれは、無知を知に変えるほうが価値がある、という意味なのかもしれない。
傍目に見てあたりまえのことを、あたりまえのままに放置している人を見ると、ああ、あれじゃだめかもな、と思うし。

それに、自分が無知無能であることを思いっきり体験させられると、その時には茫然自失と半狂乱の入り混じった状態に陥ったとしても、ある程度時が経って、内省できるところまで来ると、これってもしかしたら、自分があたりまえのことをあたりまえとして放置していたツケを払っているのかもしれない、などと思ったりもする。

むずかしいのは、
それならあたりまえのことをあたりまえのまま放置するのをやめようと思って、あたりまえのものを見つめてみても、あたりまえのものはあたりまえのままだ、ということ。
現代社会のせいか、私のせいかわからいけど、
私にはやはり、坐禅と日常生活は、
かなり違うものに思えてしまう。
典座(てんぞ。禅寺の炊事)のような気分で、日々の仕事に一心に打ち込んでいると、途方もないしっぺ返しを喰らったりするのだ。(もちろん私が至らないからかもしれないけど。)

こうして考えると、知ることで世界が組み変わる体験と、
知ったところで世界が組み変わらない体験が、
別種でありながら、
猛烈な重さを持っている、
ということなのかもしれない。
さらに言えば、それは意識化できる場合とできない場合があり、
総じて意識化することを体験と呼び、
体験が最も重要、ともいえるし、
体験できない事柄が最も重要、とも言える。

むずかしいですね。
あーあ、書いてて難しくなっちゃった、
って自分でも思います。

点滴味 

一時的、かつ即効的に、
脳のクロックをちょっと上げるかのような広告パッケージの、
ブドウ糖を使用したチョコレートというものを買ってきたのだが、
食べた印象は、

「点滴の味がする。」

これがとても不思議なのだが、
ブドウ糖はもちろんのこと、
私はいかなる点滴も、
飲んだことがない。

なんで点滴の味がする、と思うのだろう?
なんでこういう錯覚が起こるのだろう?

わからない。

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なんで下らない話をするかというと、
いま頭にある文章がどれもかなり長いもので、
なおかつ今とても忙しいので、
ちゃんとした何かを書くのは、
かなり先になりそうだからです。

再白化、あるいはアポロン的ということ 

確かに、
自我は再建された。
一体、何年かかったのだろう。

また、いつ破壊されても、
不思議ではないのだけれど。

跳梁跋扈 

正解がない状況で右往左往するのは仕方がないし、
正解がない状況を楽しむ人がいたっていいれけど、
正解がない状況を利用しようとする人々には、
なんだか許せないものを感じる。

あらかじめ迎合する人と反発する人を想定しておいてから、
「キミはまちがっている!真実はこれさ!」
って言い出したり、データ(っぽい何か)を出したりして、
迎合と反発を利用する人々。

具体例は書かない。
それすら『思うツボ』かもしれないから。

悩んでも楽しんでもふざけてもいいけれど、
ズルはやめてください。ズルは。

たくさんの人々が、つらい思いをしています。