自作ケーブルひとつかみ廃棄 

ケーブルは自分で作るもの、と思っていた。

非常に大きな代償と引き換えに覚えていった、かけがえのない知識。
この会社のこのケーブルが、最も音質と価格のバランスが良い。
この会社のこのプラグが、最も接触不良が起きにくく、ハンダ付けもしやすい。
このケーブルは、必要な分だけメートル単位で買うと、
ケーブル屋の店主がものすごく嫌そうな顔をする。
100m巻をまとめて買えば、嫌な顔もされず、値段も一気に安くなる。

MTR(マルチ・トラック・レコーダー)のケーブルであれば、
8chのアウトだけでも8本。パッチベイに出すのであれば、16本。
楽器類と使い回すためにはモノラル・フォンプラグが良く、
パッチベイの背面はRCAピンが良い。(接触不良が少なくて済む)
自分の楽器、自分の録音機材の置き場所、パッチベイの置き場所、
それらを測って、100m巻きのケーブルから切り取り、
1本ずつ、ハンダを使って、自作していく。
必要よりも短ければ、もちろん用をなさないし、
長すぎても、作業場の後ろに余分なケーブルのたまり場が出来て、
そこがノイズ発生源となる。

このケーブルも、このプラグも、もう進化しない。
だから、長ささえ適切であれば、
ケーブル作りは、決して無駄にはならない。

そう思っていた。

やがて録音機材がデジタルとなり、
8トラックぐらいが1本の光ケーブルで送信できるようになり、
それからさらにしばらくして、録音も、ミキシングも、
ほとんどコンピューターの内部でやるようになっていった。
機材が1つデジタル化するたびに、
使わない自作ケーブルが、8本、16本と、まとめて手元に残った。

ケーブル作りは、止まった。

何本作ったかは、覚えていない。
覚えていないが、100m巻きを買うようになってから、
それを2巻買って、2巻目の残りが少し残っている。
だから、100m巻以前のものを加えれば、
長さとしては200m前後、ということか。
1本のケーブルは20cmぐらいのものも、5mぐらいのものもあるので、
一概に何本作ったかは割り出せない。

新たに必要となり始めたケーブルは、
オプティカルとか、USBとか、到底自作する気になれないものだっった。
音質の鍵を握るデジタル用ケーブルは、
自作が必要なほど大量に必要にはならないし、
作るのだってなんだか怖い。
第一、ケーブルの中を通るのが“ファイル”になったら、
音の善し悪しは、ない。
(ある、という人もおられるが、データファイルが同じであれば音も同じ、と私は信じることにしている。同期外れとか、CDのエラーとか、転送中にどこかで勝手にテキストファイルみたいな改行が入っちゃってノイズになるとか、ああいうのはまた別の話。)

そうして、必要なケーブルは無造作に買うようになっていった。

絶対に無駄にならない、という信念で作り続けていたケーブルが、
延々と壁に架かっている。
まあいつか使うかも知れないしな、と架けっぱなしにしていたが、
よくよく記憶を辿ってみれば、
もう使われることもなく、10年以上も壁に架かっているように思う。

そういうわけで、大量にあるケーブルを“ひとつかみ”、廃棄した。



捨ててしまってから、
「あれは音質は確かなのだから売れば良かったんじゃないか」
などという思いもよぎったが、
10年以上ホコリをかぶっていたケーブルをアルコールか何かで拭いて、
「音のいい自作ケーブル」として売るのも、なんだか違うと思い直した。

もうちょっと、
「ケーブルが無駄になってしまった」とか、
「絶対に正しい知識が色あせてしまった」とか、
「これを作っていた苦しい時間を他に使っていれば」とか、
「さあ、これですっきりしたぞ」とか、
何らかの感慨が出てくるか、とも思ったが、
多少は上記のような思いも抱くものの、
それほど深い感慨というわけでもない。

おそらく、深い感慨を抱かずに済むぐらいに充分な時間、
壁に架けっぱなしにしていたからだろう。

大切なものを手放すのには、時間がかかる。
かさぶたと同じ。こういうものは時間をかけて。
追記/補足を読む

祖父の声、のような 

今朝方、30年以上前に他界した祖父に、
「一日一日を大切に生きるんだ」
と“言われたような実感”を持って目が覚めた。
実際に睡眠中の私に祖父が話しかけてきたのか、
あるいは、祖父が生前口にしていた、
「人間は70を過ぎたら一日一日を大切に生きる」という言葉が、
無意識下から昇ってきたのか、はっきりとしない。

両方なのかも知れない。

なぜその言葉が今になってありありと“聞こえて”きたのかも、
はっきりとしない。

祖父なり、無意識なりが、昨今の私のささくれ立った精神生活に声をかけたのか、
あるいは私の寿命が近いのか。
それも、はっきりとしない。

健康診断には行ってるんだがなぁ。

気に病んでもしょうがないので、とりあえず、
「これが空の見納め」という気持ちで空を見上げたり、
「これが太陽の浴び納め」という気持ちで炎天下を歩いたりしてみる。

おじいちゃん。
こんなんでいいですか。

扇風機が火を噴いて治す 

幼少時、父がいつ買って来たかは思い出せない。
古い扇風機。


(あまりにも汚いので全体画像は自粛します)

型番は東芝DP-30W。検索すると1968年製とあるが、
なんとなく70年代に入ってから家にあったような気がする。
高校時代(80年代)、私が「ふりーよこの扇風機」と言うと、
父は「古くたって吹いてくる風ぁ一緒じゃねーか」と笑っていたものだ。
一人暮らしを始める時にもらい受け、使い続け、
父が他界してずいぶんと経った2018の現在まで使っている。
年を経るごとにすこしづつ風力が弱まっていき、
エアコンをゆるめにかけて、“弱”で使うと、
非常に静かな微風を得ることができる。
が、今年に入って、何度か、持ち上げて動かす際などに、
パン!と音がしていた。
びっくりして「今の音なんだ!?」と見てもわからない。
が、今日再びパン!と音がして、
ひょっとして、と電源ケーブルが出ている場所を弄ったら、
パン!と瞬間的に火を噴いていた。こりゃいかん。

捨てる前にダメで元々、中を開けてみる。
筐体の中の電源ケーブルが傷み、炭化し、
もはやむき出しになった「ヒゲ」だけで通電していたことがわかる。

senpuuki2018_2.jpg
(写真はちょっと引っ張ってちぎれた後です)

逆にこれで今まで通電していたのがすごい。
このせいで風力が弱まっていたのか(殆ど抵抗じゃないか)。
火事になる前に気づけて何よりだ。
要するにこの電源ケーブルを変えればいいだけのこと。
昔、不燃ゴミで捨てる際に切り取って残しておいた、
ラジカセ用電源ケーブルを引っ張り出し、
ハンダ付けされた純正ケーブルを、
「かつてラジカセの電源ケーブルだったケーブル」に、
付け替える。

senpuuki2018_3.jpg
(上がオリジナル、下が元ラジカセだったもの)

作業の難易度としては「キャノンケーブル作るぐらい」なのだが、
家電製品をハンダで治すことは普段しないので、ちょっと緊張する。
これでなお火を噴いたら完全に自己責任だ。

senpuuki2018_1.jpg

付け替えてみれば簡単に治ったのだが、
炭化したヒゲだけの通電ではなくなったので、
あの超微風はなくなってしまった。
だが、それでも近年買ったもう1台の扇風機より、
遙かに静かな音である。
回転数が違うのか、羽根の形が違うのか。
スイッチ類もしっかりしてるし、いい感じだ。
経済活性化という観点から見れば買い換える方がいいのだろうが、
筐体のしっかり感といい、愛着といい、静かさといい、
この昭和の扇風機、まだ使うつもりでいる。

眼精疲労自己調査 

目がつらい。
最初にこのブログに「老眼」という言葉が出たのは、調べたら2011。7年ほど前になる。
老眼というのは小さい文字が見づらくなることで、
本を読むのには、老眼鏡を使っている。
その上、遠くが見えない近視・乱視も始まっており、
映画や舞台の鑑賞には、もう近眼鏡を着用している。
元々全く裸眼で生きてきたので、なかなかに慣れない。
遠近両用を掛けっぱなしにする気にもなれずにいる。

最も深刻なのは、眼鏡では矯正できない、モニター画面を見る時の眼精疲労。
これは全く凄まじいもので、根をつめて10時間もPCの前にいようものなら、
「真っ暗闇で目を閉じていても眩しくて目が開けられないような激しい目の奥の苦痛」
とでも言うような凄まじい状態に陥る。
いくら何でもこんな苦痛は尋常じゃない、と眼科に行っても、
「ちょっとドライアイかなー」ぐらいで済んでしまう。
仕方なしに、色々と検索する。
眼精疲労について検索して眼精疲労になってるのだから世話はないが、
それでも安い安み調べていく。
調べてみるに、ブルーライトというのは、かなり私にとってつらいものらしい。
総合病院の待合室で、ただ座っているだけなのに、
激しい眼精疲労に見舞われる。
何なんだこれ、と見上げると、昼間でもかなり明るく感じる電球色LEDで、
直視すると、それが目の苦痛の原因だとわかる。
自宅で調べれば、電球色であっても、かなりの量のブルーライトが入っているようだ。
スペクトラムのグラフを見ると、白熱電球の4倍(!)は入っているらしい。
つまり、ブルーライトのスペクトラムでは数値化できるけれど、
それが苦痛であるかどうか、それで目が疲労するかどうか、
現状では、眼科でもあまり数値化できないようなのだ。
私がいたたまれなかった総合病院の待合室だって、
一日中そこで働いている医療事務の人々がおられるのだから、
多くの人にとっては平気だ、と考えるしかなろう。

腰痛の時と同じ。
寝返りも出来ない痛みに対して、
殆どの整形外科は、MRIの検査と痛み止めの処方だった。
MRIで見えなければ、あとは自分で情報を集め、自分で考え、
一つずつ自分で手を打っていくしかない。
眼精疲労と腰痛について、ネット上にどっさりと情報と広告があるのは、
困っているのに病院ですんなり治らない人が多いからだろう。

まず、液晶モニターの設定を、
片っ端から「ペーパーモード」にする。
ブルーライトがカットされ、
茶色く汚い画面になるが仕方ない。
その上さらに、ブルーライトカット眼鏡をかける。
度が入っていないものと、「老眼+0.5」のものを使い分ける。
(眼科では「老眼は1.25が適切」と言われたが、ひとまず自分の実感を信じる)
スマートフォンも、四六時中ナイトシフトモードにして、
ブルーライトをカットしておく。(画面は茶色く汚くなるが仕方ない)
これだけで、目薬の消費量ががくんと減った。
でもこれだけでは、まだまだ対症的だ。

健康診断の数値を、読む。
この数値はどういう事なのか、と検索し、考える。
心理テストと、血液検査と、視力検査が、
考えていくうちに、具体的な「手法」として閃くことがある。
私の場合、鉄分が不足している、と判断した。
ほとんど全ての数値、ほとんど全ての実感が、
鉄分不足を指し示している。

鉄分のサプリを飲み始めた数日、
身体がすこし、温まるように感じた。
こういう実感も、検索してみる。
そんなことを書いてる人は見当たらないが、
実感を感じてから「これは何だ」と検索するので、
あながちプラセボでもなかろう。

まあ、大抵の実感は、数値に出ない。
鉄分の過剰摂取に対する警告にも目くばせしつつ、
ブルーライトカット老眼鏡を掛けながら、
日々の仕事に戻っていく。

(買い換え時が来たら、なるべく有機ELにしよう。あれはブルーライトがだいぶ少ない。)

このように、実感から出発し、虚ろな数値を見つめ、
その虚無に、一つずつ手を打っていく、
マニピュレート(遠隔操作)的な、着実かつ虚ろな行為。
そういう時代なのだろう。

それにしても、手元にあるものを持とうとするときにすら、
しばしば手が「空振り」してしまう。
それでも眼科は「それほどでもないでしょ」みたいに言っている。
参ったなぁ。

憤怒相 

funnusou2018_1.jpg

道端にある
聖なる 怒りに
 救われている