なんとなくみすぼらしい叡智 

長く生きていれば、人生には、
物語としてはつじつまの合わない出来事が、
いくつか生じてくる。
人生は、一編の物語とは、かなり違うもののようだ。

つじつまの合わない状況下で、気づいたことがある。
「自分に嘘をつくことは、
自分以外のすべての人に嘘をつくことにつながり、
自分以外の誰かに嘘をつくことは、
自分に嘘をつくことにつながる」
ということだ。

当たり前といえば当たり前だが、
不思議といえばこんなに不思議なことはないし、
簡単といえば簡単だが、
難しいといえばこんなに難しいことがあるのか、と思う。

嘘をつくのが非常に難しい性格がこの困難な状況を作り出しているようにも思えるし、
嘘をつくのが非常に難しい性格だからこの程度で済んでいるのだろう、
これが嘘をつける人だったらどうしようもない状況になっているだろう、とも思う。

------------------------

私が若い頃には「自分探し」という言葉もなかったので、
「若い人がはまり込む自分探しの罠」みたいな話は、
私にはよく分からないのだが、
少なくとも「自分が思う自分らしさ」というのは、
「本当の自分」よりも必ず、少し小さい。
「こうするのは自分らしい」とか、
「こういうことをするのは自分らしくない」とか、
そういう判断をしている時点でもう、
少し、或いはかなり、自分を狭くしている。
自分とは似ても似つかぬ怪物が夢に出てきたって、
それは自分の無意識が作り出しているのだから、
自分の一部に統合できるはずだし、
好きになれない人だって、
自分は好きになれない、
と自分で決めつけているだけかもしれないわけだから。

------------------------

だが、そうは言っても、長く生きていれば、
“到底受け入れられない状況”
はやってくるし、
“絶対に受け入れてはならないもの”
だって、人生には侵入してくる。

そういう状況下では、
「こうすればこっちに対して嘘になるし、
こうすればあっちに対して嘘になる。
こうすれば今の自分に対して嘘になるし、
こうしなければ今までの自分に対して嘘になる。
一体どうするのが、
自分にも、自分以外の人々にも、適切なのだ?」
という判断が、非常に難しい。
本人は気力を振り絞って、
誰に対しても、何に対しても嘘にならないよう、
その状況に対処しているのだが、
周囲から見れば、何が起きているのかよくわからない。

そういう状況をあとから思い返すと、
「ああ、やはりああするのが適切だったよな」
と思う。

だが、自分に嘘をついたり、
他人に嘘をついたりする癖がついているような人は、
歳をとってから現れるこういった状況に、
対処できなくなっているのではないだろうか。
そして、
「対処できずに自我が崩壊してしまう人」と、
「どうにかこうにか状況に対処している人」は、
周囲から見ても、
殆ど判別できないのではないだろうか。

------------------------

「絶対に正しいこと」に対してどうふるまうか、
「絶対に間違えていること」に対してどうふるまうか、
「絶対に正解がない」ことに対してどうふるまうか、
「自分自身」に対してどうふるまうか、
「自分ではないもの」に対してどうふるまうか、
結局は、「自分次第」ではある。

自分以外の人も似たようなことを思っていたり、
或いは思っていなかったり、
他人に「自分だけの真実」を押し付けたり、
そのために何とかして他人に嘘をつかせようとしていたりするわけだから、
おのずと人生は複雑になっていく。
対処は難しい。

------------------------

経験によってのみ蓄積されうる、
こういった法則のない“叡智”のようなものは、
どういうわけだか、なんとなく、
みすぼらしい。

「しょうがねぇなあ」
と困惑しながら、人生の後半を進む。

“静かな場の生成”という成功基準 

dm_20191027_1013.jpg

何十年やっても、慣れもせず、ノウハウも蓄積しない、
「チラシ配り」というものをやっていて、
先日、楽器屋さんに置かせていただいた折、
電子楽器の世界では有名な某店の名物店員さんに、
「何をもって成功とするかですね。」
という問いをいただいた。
ライブなり、イベントをやる際に、
何がどうなったら、「成功」と呼べるのか。
それによって、告知、宣伝の方法は変わってくるだろうと。
それに対して、その場では、
「体が動くうちにやれることはやっとくんです」
と応じたのだが、
あまりいい受け答えではなかったと自分でも思う。

あらためて一人になって考えてみるに、
当初から、この「元型ドローン」と銘打ったライブシリーズは、
「静かな場の生成」
を目標としているので、
それができたら「成功」だと言える。

そして、回を重ねるごとにわかってきたことだが、
その「静かな場」は、来て下さる方々の、
人数とはあまり関係がないように思う。
あの特別な空間は、来て下さる方々の、
意志というか、信頼のようなものによって、
会場が一体となることで生じているように実感される。
誰もいない場所で一人ぼっちで静か、
というのとは全く違う、あの信頼の空間は、
来て下さるお客さんあってのものだ。

その静かさを実現するために、
お客さんには前もってスマホを電源から切っていただいているし、
ドリンクは終演後にお出しする。
普通のライブハウスよりはちょっと厳しいかもしれないが、
普通の舞踏・普通の演劇ぐらいと思えば、まあ普通である。
その上、普通の舞踏・普通の演劇よりは上演時間が短いので、
チラシを見てなんとなく来て下さる方でも、
集中が途切れることはないだろう。

そんなわけで、今回も「静かな場」を目指します。

------------ 以下告知 ------------

舟沢虫雄 (Mushio FUNAZWA)
電子持続音ライブ
「元型ドローンVol.18」

2019年10月27日(日)18:00 Start
¥1500
会場:東京 六本木 ストライプハウスギャラリー
東京都港区六本木5-10-33-3F [地図]

電子持続音によるミニライブです。
演奏時間は50分程度を予定しており、
黙々とした、“静かな場”の生成を望んでおります。
よろしければ是非お越し下さいませ。

(演奏後に簡単なお飲み物とポストトークがありますが、
こちらは自由参加となります。)

意志を持って購入 

マイケル・ジョン・フィンク氏のニューアルバムが出ていることに気づくのに、
私は数か月かかった。
レーベルのサイトには出ているが、
公式サイトには、2019/9/21日の時点で、
いまだに告知されていない。
通販サイトで次から次へと、
様々なものを「おすすめ」されているせいか、
知らないうちに、
「自分好みの新譜は放っておいても目の前に差し出される」
と思ってしまっていたようだ。

新譜が出てるのを知ったとはいえ、
すぐに飛びつくものでもなかろう。
そのうち、いつもの通販サイトで買えるようになるだろう。
そう思って、しばらく様子を見ていた。

数か月を過ぎても、買えるようにはならない。

仕方なくダウンロード販売でデータを購入したものの、
やっぱり非圧縮のものが聴きたいし、ジャケット内の様子も見たい。

そもそも、これほど各種通販サイトでの発売が遅い、
というのがちょっと不気味である。
ひょっとしてCDでの物理販売がされていないのだろうか、
と思って検索すると、
海外ならところどころ、CDで売っているらしい。

これは推測だが、
「ものすごく少ない量プレスしたのではないか」
「世界中でCDの転売業者が減ってきてるのではないか」
などと考えるに至った。

そこで、英語のサイトを物色し、
海外から、CDを1枚、買った。



アメリカの作曲家、アメリカのレーベルだが、
私はベルリンのお店から買ったらしい。
「Made in Berlin」というステッカーが入ってた。
届くのに2週間かかったが、
紙ジャケなので、ケースは割れていなかった。
(まあ割れていたってプラケースなら替えられるけど)

グローバル時代になっても、
結局、優れたものは自力で探し、
自力で手に入れる。

いやむしろ、グローバル時代だからこそ、
こういうものは、
意志をもって購入する。

こんなに繊細で静謐なもの、
インターネット上にあったって、
みんな聞き逃してしまうではないか。
私だって、1980年代、
池袋にあった「ART VIVANT」というお店で、
この人のレコードを購入したから今があるのであって、
ネットの喧騒の中にこれがあっても、
前知識がなかったら、
気づかずに「スキップ」していたかもしれない。

グローバル・サイレンス。
地味なものこそ、意志を持って。
発信側も、受信側も。

運命と自由、怒りと感謝 

「この先は運命だけだ」
という思いと、
「この先は自由だ」
という思いが、
しばしば、交互に、去来する。

「こんな人生あってたまるか」
という、爆発的な怒りと、
「なんという贈り物の多い人生だろう」
という、爆発的な感謝の念が、
しばしば、交互に、去来する。

これらはあまりにも矛盾しているし、
思考可能な文章としてまとめることもできないので、
そのうち明快な言語に落とし込めたり、
或いはこれらの矛盾そのものが、
足して2で割ったり、折り合いがついたり、
別の何かに止揚されたりするのかな、
と思っていたので、
ブログに書くのを控えていた。

だが、何年たっても、
この鮮烈な矛盾は、
そのまま去来し続けている。

なので、このまま、こうしてブログに書いておきます。
年を取るって、何なんでしょうかね。
追記/補足を読む

フロッピー、МО/メディアの中身 

家の中を掃除していて、
ふと、普段開けない引き出しを開けたら、
中が殆ど、フロッピーディスクとMOディスクだった。
フロッピーディスクドライブも、
MOドライブも、もう、持っていない。

それらのディスクを、不燃ごみとして捨てた。
全く、惜しくなかった。

あまりにも惜しくなかったので、
なぜこれほどまでに惜しくなかったのか、
考えてみた。

------------------------

そのメディアの中身はというと、
今までにリリースしたアルバムに使用した、
MIDIデータのバックアップや、
もう持っていないデジタルMTRのマルチトラックデータなど。

つまり、中身は“作品”ではなく、
作品となる前の途中経過のバックアップなどで、
もう使用する機会もないし、
それらのデータを展開する方法もない。

フロッピーやМОの中身が、
もっと大切な何かだったら、
少しは惜しかったのだろうか。
――そうだったなら、多少は惜しくなる気もしてくる。

フロッピーやМОの中身が、
どこか別の場所に移動できるとすると、
フロッピーもМОも、全く意味がないのだろうか。
――そう。少なくとも私にとっては、全く、意味がない。

つまり私にとっては、フロッピーも、МОも、
価値はその中身にあるのであって、
メディアそのものには全く意味がなかったわけだ。

このことは、恥ずかしながら、
フロッピーやМОを買い込んでいた時代には、
思いもよらなかったことである。

“中身にしか意味がないメディア”と、
“メディアにも中身が含まれているメディア”、
というものがあるわけだ。


------------------------

さて、ここで言う中身とは何か。

ここで私は、世の中にCDが普及し始めた時代のことを思い出す。
アナログレコードはCDに完全移行できるのかという、
当時盛んに議論された内容の中には、
“どちらが音がいいのか”という話だけではなく、
・ジャケットの大きさ
・針と落とすという行為
・裏返す
などについての議論が含まれていた。
当時、アナログレコードのジャケットは、
あのアナログレコードの大きさで見るように
デザインされていた。(当たり前である。)
そして、針を落とすという行為が、
非常に力強い、“音楽に集中する助け”となっていたことは、
当時、多くの人が経験していた。
そして、「裏返す」。
当時、非常に多くのアナログレコードアルバムは、
この行為を逆算して、制作されていた。
今で言うと「ライブのセットリスト」のようなもの。
A面の最後は、いかにも「休憩前に一度クライマックスが来る」ような曲であったし、
B面の最初は「休憩後の最初の1曲」のような曲であった。

だから、アナログレコードのアルバムをCD化する際に、
その体験を引き継ぐために、
A面の最後の曲と、B面の最後の曲の間に、
1分程度の曲間を入れればいいのではないか、
という議論もあったはずだ。
(実際にはそんなことをしたら、CDアルバムを通して聴いたときに、
アナログレコードを知らない人にとっては意味の分からない無音が
1分入ってるCDが出来上がることになるので、
実際にそれを行ったアルバムは記憶にない。というか、
この当時の議論自体、検索をかけても出てこない。
記憶違いではないと思うが、もうそんなことを
覚えていてネットに上げる人はいなくなってしまったのか、
はたまた私の検索が下手なのか。)

いずれにせよ、レコードアルバムの“中身”には、
アナログレコードそのものが含まれていたわけだ。

------------------------

似たようなことは、映像でも起きる。
ビデオが一般化する前の映画には、
まさか小さい画面で見る人がいるだなんて考えもしていない、
という構図の映画がたくさんあった。
現代でも、
「映画館でしか見れないような表情筋の動き」
などという役者さんのインタビュー記事などを読むにつけ、
ビデオが一般化した今であっても、
ビデオで見ることは、
いわば絵画を画集で見るような、
見る側が想像力による補正を必要とする行為なのだろう。

映画の中身には、映画館が含まれているようだ。

------------------------

本はどうか。
本の本質、本の中身は、書かれている言葉だろうか。
私は最近、特に本の本質について考えるようになった。
スマートフォンを使い始めた当時、
私は1冊の電子書籍を購入した。
pdfでも、Kindleでもない、電子書籍。
その小説は、もう、読めない。
どういうファイル形式だったのだろうか、
OSが上がったタイミングで、開かなくなってしまった。
サポートが終了したのだろう。

私は、iPadやKindleを、まだ所有していない。
読んだ本はなるべく捨てるように生きてきたが、
それでも、“どうしても捨てられない本”で、
本棚は一杯だ。
だが最近、改めてそれらを開いてみると、
ほとんどの“どうしても捨てられない本”は、
もう、老眼で読めないことがわかる。

私は、フォントの大きさを変えられる、
ブルーライトのない電子書籍に移行すべきか。
その端末、そのファイル形式は、
私が生きている間、稼働してくれるのか。

新しモノが好きな人や、若い人に話を聞いてみると、
「なんか結局、紙ですよ」と、
紙の本を読んでおられたりもする。
装丁など、明快に言うことができる価値以外にも、
何か「紙の本」でなければならない理由があるようだ。

(でも私はもうじき、かなりの本を捨てることになるだろう。
老眼で読めないんじゃぁ、もうしょうがない。)

------------------------

今後、5G回線などが普及して、
ロスレス音源、すなわち、
CDと全く同じデータのストリーミング配信が
当たり前になったら、
私はCDを手放すのだろうか。

データが同じとして、
そのためにPCを立ち上げ、
そのためにDAコンバーターを買い、
そのためにアンプを買って、
今のヘッドフォンにつなげるなら、
音質は今と大差なくなるだろう。

だが、音楽を聴くのに、
パソコンを立ち上げるか?
あるいは、スマホなどからロスレスの状態で外に出せるか?
画面の光が音楽を聴く妨げにはならないか?
そもそも、様々な人がロスレス配信を聴き始めたら、
電波帯は持つのだろうか?
どこかで自動圧縮は入らないのか?
曲間の無音など、
CDプレーヤーに入れなければ仕様的に体験できないものは、
もはや始めからなかったことになるのだろうか?
ジャケットデザインは1枚の画像だけになってしまうが、
ライナーも含めて電子書籍のようにファイル化するのか?
以上のような思考可能な問題以外に、
本のように、「なんか結局、紙ですよ」、
なんていう、思考化できない実感を理由に元に戻ったりしないだろうか?

なってみないとわからない。

CDアルバムの中身における、
44.1KHz/16bitデータ以外のものが、
ある日、不要となるのかどうか。

ただ、CDを作る最小ロットを考えるにつけ、
今後、私を含め、ニューアルバムをCDという形式で
出すことは、ますます難しくなっていくだろう。

(返す返すも、映画はいかにして生き残ったのだろう。
テレビが普及し始めた時代から「もう終わり」と言われ続けて、今も生きている。
どれほどの人々がどれほどの知恵と努力をそこに注ぎ込んできたのだろう。)

------------------------

話はいったん飛ぶ。
私がこの場所でブログを書いているのは、
この場所が、ある程度、
自分が思った色やレイアウトにできているからだ。
(スマホの方はちょっと読みづらいかもしれません。すいません)

でも、思った通りといっても、
そもそもこれがブログという入れ物じゃなかったなら、
文体はだいぶ違ったものになるように思う。
これが別のデザインのブログになったり、
そもそも別の入れ物になったりしたら、
全く別の文章になったり、
そもそも書くことができなくなったりするかもしれない。

自由に書いてはいるが、入れ物に合わせてもいるわけだ。
そういう意味では、メディアとのネットワークで、
このブログは書かれている。

------------------------

話をはじめに戻す。
私にとって、フロッピーディスクやMOディスクの中身は、
中に入っているデータ以外の要素は、なかった。
フロッピーディスクでなければ体験できないもの、
MOディスクでなければ体験できないものは、
私の手元には、なかった。
世の中にも、そういうものはほとんどなかったと思う。
(90年代、自主制作フロッピーディスクなるものを
池袋の ART VIVANT というお店で買った覚えがある。
中身は興味深いテキストファイルだったが、
そのフロッピーは散逸してしまった。)

つまり、一口にメディアといっても、
メディアとのネットワークの中で「作品」となっているものと、
中の「データ」だけが作品・内容・価値であって、
そのデータが入っている入れ物(メディア)は、
全く価値がないものとがあるわけだ。

------------------------

さて。
私は心血を注いでデータを作る。
それを誰かが受け取って下さる。
そのあいだにある、沢山の「入れ物」。
それらの、どれに、どのぐらい、
どういう種類の、価値があるだろうか。

Windowsとか、iPhoneとか、GAFAとかが、
ある日、別の何かに移行したら、
私は、惜しいと思うのだろうか。

何か、私(たち)の間に、
まんべんなく、広大な虚無が挟まっていて、
それが虚無過ぎて、私(たち)に見えていないような気がするのだが。

OSやプラットフォームはメディアじゃない、
そう言われれば恐れ入るばかりだが。

MOやフロッピーがなくなる日が来るなんて、
15年ぐらい前には想像してなかった私が、
何か、分かってて当たり前の何かに、
今になって気づいただけなのだろうか。

------------------------

こんなことを考え、言語化しても埒が明かないので、
そもそも言語化・データ化できないような、
その場でしか経験できないライブをやって、
それをどうにか録音物として聴いていただけるように調整して、
USBメモリで売って
あとはライブの模様を、
半ば記録、半ば次のライブへの宣伝という位置付けで、
Youtubeに公開しているわけだ。

フロッピーとMOを捨てるときに、
あまりにも惜しくなかった自分に驚き、
この文章を書き始め、
気づいたら数時間経っていた。
ざっと推敲しても、
まだうまくまとまり切っていないように感じる。
だが、推敲する時間は、あまりない。

この時間と気力を、
前回のライブダイジェストの編集に使えばよかったんだろう。

だが、書いてしまった。
しょうがない。