感情地形 

最近、人間の感情を、
“地形”のように感じることが増えてきた。

この土地にこの作物は適している、
この場所にこの発電は不向きである、
ということがあるように、
地形は非常に変えづらい。

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何十年繰り返しても、
学ぶことができない人がいる。
何十年繰り返しても、
学ぶことができないものがある。

得意なことを伸ばすのはよいが、
不得意なものを人並みにしようとするのは、
途方もない辛苦を伴う。
途方もない辛苦を味わったところで、
そういったものごとは、
ごくわずかしか成長できないか、
あるいは、全く、成長できない。

さらに凄まじいことには、
あまりにも不得意なために、
本人が「不得意である」ことすら自覚できない、
ということも多い。
(このことを実感するのに、私は数十年かけている)

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何十年繰り返しても、
学ぶことができない人々に対して、
これはもう、こういう人なのだ、というか、
こういう“地形”なのだ、
という感覚を持つようになってきた。
この地震は止まらない。
この氾濫は止まらない。
ここに水を注いでも作物は育たない。
そういう風に捉えるようになってきた。

こういう感覚を、
“諦念”と呼んでいいのかどうかは、わからない。

こういうこと、すなわち、
人間の治らない“地形的な部分”に対して、
適した作物に植え替えたり、
遠くから用水路を引いたり、
あるいは削れない山に対して
トンネルを掘ったりするような行為を、
“マネジメント”と呼ぶのだろう。
そういうことにこの歳になって気づく、ということは、
私がどれほど“マネジメント”が不得意か、
ということの表れでもあるわけだ。

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私が長年励行してきたことに、
“親身なダメ出し”がある。
“ダメ出し”、悪いところを伝えることは、
言われた方は非常に不快なものであるし、
言う方も個人的な思い込みが混入していたり、
たとえ正論であっても改善不能なものだったりするので、
基本、言わない方がお互いのためなものだ。

なので、ダメ出しをする際、
私は以下のようなマイルールを持っていた。
・絶対に間違えている。私見ではない。
・絶対に改善できる。その方法は簡単である。
・相手と自分が親密であるか、或いは十分に距離があり、お互いに禍根が残らない。
・伝える機会が、相手から与えられる。

こういう場合に、私は親身に、丁寧に、ダメ出しをしていた。
20年、或いは30年程度続けていたろうか。

数年前にふと気づいた。
改善された例は、ほとんどない。

ちょっと考えて、その理由も概ね理解した。
絶対に間違えていて、絶対に直すことができるものが、
目の前にあって、それを放置しているような人々に、
それを言ったって、伝わらないだろう。

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2020年6月現在のこの状況に対して、
「歴史に学べ」という人は多い。
だが見ていると、どうも、人間の、
「学べない部分」が歴史なのではないか、
という気持ちも湧いてくる。

人為が非常に及びづらい部分が“歴史”なのではないか。

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かつて、人間社会の特定の事柄について、
この先に何があるのか、
三葉虫やアンモナイトを見れば明らかだ、
という方がおられたと記憶している。
人為の及ばない領域で起きることは、
人間界においても自然界においても、
似ているのかもしれない。

人間社会における、人為の及ばない部分。

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かつて、ウィルスが来て、
経済が分断され、
国連が弱まって、
世界大戦が起こった。

そのことを、政治や経済や、
歴史に詳しい人は、みんな分かっているのだろう。
それに対して、私に意見なんぞあるはずもない。

分かっていることを止められるかどうかだって、
私にはわからない。

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本質的な物事は、因果律とは違う部分にあることが多い。

ある哲学者が、のちの哲学者の考えを発展させているように見えても、
のちの哲学者は、前の哲学者のことを知らない、
そういうことがあるのだそうだ。

音楽だって、何かが継承されていくというより、
個々人が別の根を持って、別の幹であったほうが、
ずっとエネルギーに満ちている。
(こういうことを言うと各方面から怒られるんだが)

歴史―因果律で展開する物事の上に、
非・歴史―因果律に基づかないものが顕現する。

そのようなことに思いを巡らすと、
ああ、やはりいま何か、大きなものが、
去っているのだな
という気持ちが湧いてくる。

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エドゥアール シュレー著「偉大な秘儀参入者たち」を、
通読は、した。
理解できたかどうかは、あやしい。
印象深かったのは、“秘儀参入者”が世を去ったあと、
時代が再び歴史の渦に埋没していく描写であった。
(もう本を手放したので詳細は思い出せない)

超歴史的存在、非因果律的存在が去ると、
人類は歴史的になる。
そういうことだろうか。

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私は歴史に詳しくないし、
それほど好きでもない。

「これからどうなるのか、歴史を見れば明らかだ」
と言って、それ以上口にしない人や、
「歴史の歯車が動き出したのだ」
と言って、それ以上口にしない人に、
何が見えているのか、
私にはよくわからない。

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一応、「Archetype Drone Vol.17」で予感したことや、
KAIHOU」で意識的にやったこととは、
これはつながっているだろう、とは思う。

だが、ここまでのことになるとは、
全く想像していなかった。
いまこの瞬間に起きていることだって、
想像力が追い付かない。


先は長い。
追記/補足を読む

人間と人間らしさと、高架橋下の雑草 

まさかここまで大変なことになるとは思わなかった。

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当たり前だが、
人間は、人間らしさだけでできているわけではない。
肉体を構成する物質には物質の法則が適用できるし、
生命の法則は植物とだいたい同じだし、
腸のはたらきは腔腸動物と大差ない。

人間らしさというのは、
出現が最も遅いものなので、
最も歴史が浅く、最も頼りないもの、
とも言えるわけか。

そして、その頼りない「人間らしさ」こそが、
人間の人間たる所以、
人間の存在理由とも言えるわけか。

そんなことを、たとえば、
「アウシュビッツでこれから処刑される人が、
着ているものを脱ぐよう命じられ、
命じられるままに服を脱いだものの、
脱いだ服をどこに置いたらいいか、
置き場所に困っていた。
人間らしさとはそういうことなのだ。」
というような話を読んで、
イメージしたりしていた。
(20世紀後半の話だ。本の詳細は忘れてしまった。)

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どこまで自然から離れようとも、
人間は自然から完全には離れられない。
(いいや、人間は全部電脳化できる、
という方もおられるだろうが、
電脳化したって部品や電気は物質と言える)

じゃあ自然に還れ、と言っても、
自然がつらいから人間はここまで来た、
とも言えるわけだ。

自然と人間らしさは、常に相克しているし、
自然と相克しつつバランスをとるのが人間だ、
などと言ってしまうと、
ちょっとグノーシスに寄りすぎているだろうか。

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人間と自然の相克バランスを、
どの辺に設定するか、ということについて、
私は、鈴木大拙の本を思い出す。

『自然を排除した、
平安京の貴族文化のようなものは、
まだまだ甘い。
むしろ、日本の一番凄いところは、
自然にかなり近い場所に見られる。』

だいたい、そんな話だったように思う。
(詳細は忘れた)

平安時代のヴァーチャルな貴族文化より、
その後に来た鎌倉文化の、
そのまた辺境、自然に近い田舎の中に、
日本文化の一番すごいところが現れる、
というのが鈴木大拙の文章だったと記憶している。
(詳細は忘れたし、読み返そうにももう老眼で読めない)

これを今に適用すると、
日本の一番すごい文化というのは、
ヴァーチャルな文化の後、すなわちこれから、
地方の、自然に近いところ、すなわち、
第一次、第二次産業の周辺に散見できるようになる、
ということになる。

私は、鈴木大拙に100%賛同しているわけではない。
(難しすぎてよくわかっていないとも言えるが)
そもそも「妙好人」の自我感覚と、
「モラルハラスメント」の自我の入れ替えは、
私には非常に近いものに思えるので、
それが一番良いところなのであれば、
一番悪いところもそこに立ち現れてくるように思えてしまう。
(小説「沈黙」の奉行を通じて遠藤周作が描こうとした日本の悪にもこれは通じているように思える)

“自粛”、つまり自分から慎むことを
“要請”、つまりお願いしているけれど、
それは実質“強制”なのだ、というのは、
捉えようによってはかなり恐ろしいことだ。
とはいえ、
強制的な“封鎖”もなしでみんなここまでできるのは、
やはりすごいことだよなあ、とも思う。

こういうことが、「同じメダルの裏表」、
という表現で済むのかどうかも、よくわからない。
目の前に“善悪の彼岸”が広がっているのだが、
それがあまりに深く、あまりに広いので、
なかなかそれを観察できない、といったところか。

そもそも、どうしても戦争などと比較してしまうが、
これは国家も民族も人種も関係ない、疫病。
自然災害だ。

くどいようだが、21世紀の今、
「疫病」でここまで大変なことになるとは思わなかった。

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不要不急人間として、
不要不急の外出を控えていると、
心身がみるみる衰えていく。

なので、時折、歩く。
これを“散歩”と言えば自粛していないように聞こえるし、
“ウォーキング”と言えば自粛を頑張っているように聞こえる。

少し歩くだけで、
世の中のサウンドスケープが全く変化していることに気づく。

子供たちの遊ぶ声は、住宅街や高速道路の防音壁に当たり、
昭和時代、いや平成時代にも聞いたことのない響きとなっている。

住宅街に点在する、普段は人のいない公園が、
今この状況で、人の心を維持するために、
大いに役立っていることもわかる。
親子のキャッチボールの音が、高速道路の防音壁にこだまする。

私は私でいつもの通り、
整備された公園よりはむしろ、
高架橋の下の雑草から生命を分けてもらっている。

zassounomiti_2020.jpg

自然から遠ざかるのが人間、
自然を欲するのも人間。

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いま「老眼で読めない」と書いたばかりだが、
鈴木大拙「日本的霊性」をぱっとめくってみた。

岩波文庫84頁、
「霊性の動きは、現世の事相に対しての深い反省から始まる。」



反省かぁ。
長年電子音楽やってきて「反省」って言ってもなぁ。
今この年齢とこの体で農業とかできっこないしなぁ。

zassouwatage_2020.jpg

------------ 以下告知 ------------

ニューアルバム
KAIHOU
配信中

ライブ予定通り、但し飲食談話のみカット 

毎日、状況が激しく変化しておりますが、
3/22(日)のライブは、
よほどのことがない限り、やるつもりでおります。

(よほどのこと、というのは、外出禁止令が出るとか、私自身が37.5℃の熱を出すとかです。)

ただ、このライブシリーズでは従来、
終演後にお飲み物をお出ししてポストトークを行っておりましたが、
この飲食とトークについては、割愛させていただきます。
(終演後の自由参加形式でしたので、料金はそのままとさせていただきます。)

熱のある方、咳・くしゃみが継続的に出る方は、ご来場をお控えください。
そーっとやりますので、皆様、そーっとお越しくださいませ。

(“よほどのこと”が起きたら、このブログを更新いたします。)

------------ 以下告知 ------------

舟沢虫雄 (Mushio FUNAZWA)
電子持続音ライブ
「元型ドローンVol.19」



2020年3月22日(日)18:00 Start
¥1500
会場:東京 六本木 ストライプハウスギャラリー
東京都港区六本木5-10-33-3F [地図]

↓練習風景

なんとなくみすぼらしい叡智 

長く生きていれば、人生には、
物語としてはつじつまの合わない出来事が、
いくつか生じてくる。
人生は、一編の物語とは、かなり違うもののようだ。

つじつまの合わない状況下で、気づいたことがある。
「自分に嘘をつくことは、
自分以外のすべての人に嘘をつくことにつながり、
自分以外の誰かに嘘をつくことは、
自分に嘘をつくことにつながる」
ということだ。

当たり前といえば当たり前だが、
不思議といえばこんなに不思議なことはないし、
簡単といえば簡単だが、
難しいといえばこんなに難しいことがあるのか、と思う。

嘘をつくのが非常に難しい性格がこの困難な状況を作り出しているようにも思えるし、
嘘をつくのが非常に難しい性格だからこの程度で済んでいるのだろう、
これが嘘をつける人だったらどうしようもない状況になっているだろう、とも思う。

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私が若い頃には「自分探し」という言葉もなかったので、
「若い人がはまり込む自分探しの罠」みたいな話は、
私にはよく分からないのだが、
少なくとも「自分が思う自分らしさ」というのは、
「本当の自分」よりも必ず、少し小さい。
「こうするのは自分らしい」とか、
「こういうことをするのは自分らしくない」とか、
そういう判断をしている時点でもう、
少し、或いはかなり、自分を狭くしている。
自分とは似ても似つかぬ怪物が夢に出てきたって、
それは自分の無意識が作り出しているのだから、
自分の一部に統合できるはずだし、
好きになれない人だって、
自分は好きになれない、
と自分で決めつけているだけかもしれないわけだから。

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だが、そうは言っても、長く生きていれば、
“到底受け入れられない状況”
はやってくるし、
“絶対に受け入れてはならないもの”
だって、人生には侵入してくる。

そういう状況下では、
「こうすればこっちに対して嘘になるし、
こうすればあっちに対して嘘になる。
こうすれば今の自分に対して嘘になるし、
こうしなければ今までの自分に対して嘘になる。
一体どうするのが、
自分にも、自分以外の人々にも、適切なのだ?」
という判断が、非常に難しい。
本人は気力を振り絞って、
誰に対しても、何に対しても嘘にならないよう、
その状況に対処しているのだが、
周囲から見れば、何が起きているのかよくわからない。

そういう状況をあとから思い返すと、
「ああ、やはりああするのが適切だったよな」
と思う。

だが、自分に嘘をついたり、
他人に嘘をついたりする癖がついているような人は、
歳をとってから現れるこういった状況に、
対処できなくなっているのではないだろうか。
そして、
「対処できずに自我が崩壊してしまう人」と、
「どうにかこうにか状況に対処している人」は、
周囲から見ても、
殆ど判別できないのではないだろうか。

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「絶対に正しいこと」に対してどうふるまうか、
「絶対に間違えていること」に対してどうふるまうか、
「絶対に正解がない」ことに対してどうふるまうか、
「自分自身」に対してどうふるまうか、
「自分ではないもの」に対してどうふるまうか、
結局は、「自分次第」ではある。

自分以外の人も似たようなことを思っていたり、
或いは思っていなかったり、
他人に「自分だけの真実」を押し付けたり、
そのために何とかして他人に嘘をつかせようとしていたりするわけだから、
おのずと人生は複雑になっていく。
対処は難しい。

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経験によってのみ蓄積されうる、
こういった法則のない“叡智”のようなものは、
どういうわけだか、なんとなく、
みすぼらしい。

「しょうがねぇなあ」
と困惑しながら、人生の後半を進む。

“静かな場の生成”という成功基準 

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何十年やっても、慣れもせず、ノウハウも蓄積しない、
「チラシ配り」というものをやっていて、
先日、楽器屋さんに置かせていただいた折、
電子楽器の世界では有名な某店の名物店員さんに、
「何をもって成功とするかですね。」
という問いをいただいた。
ライブなり、イベントをやる際に、
何がどうなったら、「成功」と呼べるのか。
それによって、告知、宣伝の方法は変わってくるだろうと。
それに対して、その場では、
「体が動くうちにやれることはやっとくんです」
と応じたのだが、
あまりいい受け答えではなかったと自分でも思う。

あらためて一人になって考えてみるに、
当初から、この「元型ドローン」と銘打ったライブシリーズは、
「静かな場の生成」
を目標としているので、
それができたら「成功」だと言える。

そして、回を重ねるごとにわかってきたことだが、
その「静かな場」は、来て下さる方々の、
人数とはあまり関係がないように思う。
あの特別な空間は、来て下さる方々の、
意志というか、信頼のようなものによって、
会場が一体となることで生じているように実感される。
誰もいない場所で一人ぼっちで静か、
というのとは全く違う、あの信頼の空間は、
来て下さるお客さんあってのものだ。

その静かさを実現するために、
お客さんには前もってスマホを電源から切っていただいているし、
ドリンクは終演後にお出しする。
普通のライブハウスよりはちょっと厳しいかもしれないが、
普通の舞踏・普通の演劇ぐらいと思えば、まあ普通である。
その上、普通の舞踏・普通の演劇よりは上演時間が短いので、
チラシを見てなんとなく来て下さる方でも、
集中が途切れることはないだろう。

そんなわけで、今回も「静かな場」を目指します。

------------ 以下告知 ------------

舟沢虫雄 (Mushio FUNAZWA)
電子持続音ライブ
「元型ドローンVol.18」

2019年10月27日(日)18:00 Start
¥1500
会場:東京 六本木 ストライプハウスギャラリー
東京都港区六本木5-10-33-3F [地図]

電子持続音によるミニライブです。
演奏時間は50分程度を予定しており、
黙々とした、“静かな場”の生成を望んでおります。
よろしければ是非お越し下さいませ。

(演奏後に簡単なお飲み物とポストトークがありますが、
こちらは自由参加となります。)