運命と自由、怒りと感謝 

「この先は運命だけだ」
という思いと、
「この先は自由だ」
という思いが、
しばしば、交互に、去来する。

「こんな人生あってたまるか」
という、爆発的な怒りと、
「なんという贈り物の多い人生だろう」
という、爆発的な感謝の念が、
しばしば、交互に、去来する。

これらはあまりにも矛盾しているし、
思考可能な文章としてまとめることもできないので、
そのうち明快な言語に落とし込めたり、
或いはこれらの矛盾そのものが、
足して2で割ったり、折り合いがついたり、
別の何かに止揚されたりするのかな、
と思っていたので、
ブログに書くのを控えていた。

だが、何年たっても、
この鮮烈な矛盾は、
そのまま去来し続けている。

なので、このまま、こうしてブログに書いておきます。
年を取るって、何なんでしょうかね。
追記/補足を読む

フロッピー、МО/メディアの中身 

家の中を掃除していて、
ふと、普段開けない引き出しを開けたら、
中が殆ど、フロッピーディスクとMOディスクだった。
フロッピーディスクドライブも、
MOドライブも、もう、持っていない。

それらのディスクを、不燃ごみとして捨てた。
全く、惜しくなかった。

あまりにも惜しくなかったので、
なぜこれほどまでに惜しくなかったのか、
考えてみた。

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そのメディアの中身はというと、
今までにリリースしたアルバムに使用した、
MIDIデータのバックアップや、
もう持っていないデジタルMTRのマルチトラックデータなど。

つまり、中身は“作品”ではなく、
作品となる前の途中経過のバックアップなどで、
もう使用する機会もないし、
それらのデータを展開する方法もない。

フロッピーやМОの中身が、
もっと大切な何かだったら、
少しは惜しかったのだろうか。
――そうだったなら、多少は惜しくなる気もしてくる。

フロッピーやМОの中身が、
どこか別の場所に移動できるとすると、
フロッピーもМОも、全く意味がないのだろうか。
――そう。少なくとも私にとっては、全く、意味がない。

つまり私にとっては、フロッピーも、МОも、
価値はその中身にあるのであって、
メディアそのものには全く意味がなかったわけだ。

このことは、恥ずかしながら、
フロッピーやМОを買い込んでいた時代には、
思いもよらなかったことである。

“中身にしか意味がないメディア”と、
“メディアにも中身が含まれているメディア”、
というものがあるわけだ。


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さて、ここで言う中身とは何か。

ここで私は、世の中にCDが普及し始めた時代のことを思い出す。
アナログレコードはCDに完全移行できるのかという、
当時盛んに議論された内容の中には、
“どちらが音がいいのか”という話だけではなく、
・ジャケットの大きさ
・針と落とすという行為
・裏返す
などについての議論が含まれていた。
当時、アナログレコードのジャケットは、
あのアナログレコードの大きさで見るように
デザインされていた。(当たり前である。)
そして、針を落とすという行為が、
非常に力強い、“音楽に集中する助け”となっていたことは、
当時、多くの人が経験していた。
そして、「裏返す」。
当時、非常に多くのアナログレコードアルバムは、
この行為を逆算して、制作されていた。
今で言うと「ライブのセットリスト」のようなもの。
A面の最後は、いかにも「休憩前に一度クライマックスが来る」ような曲であったし、
B面の最初は「休憩後の最初の1曲」のような曲であった。

だから、アナログレコードのアルバムをCD化する際に、
その体験を引き継ぐために、
A面の最後の曲と、B面の最後の曲の間に、
1分程度の曲間を入れればいいのではないか、
という議論もあったはずだ。
(実際にはそんなことをしたら、CDアルバムを通して聴いたときに、
アナログレコードを知らない人にとっては意味の分からない無音が
1分入ってるCDが出来上がることになるので、
実際にそれを行ったアルバムは記憶にない。というか、
この当時の議論自体、検索をかけても出てこない。
記憶違いではないと思うが、もうそんなことを
覚えていてネットに上げる人はいなくなってしまったのか、
はたまた私の検索が下手なのか。)

いずれにせよ、レコードアルバムの“中身”には、
アナログレコードそのものが含まれていたわけだ。

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似たようなことは、映像でも起きる。
ビデオが一般化する前の映画には、
まさか小さい画面で見る人がいるだなんて考えもしていない、
という構図の映画がたくさんあった。
現代でも、
「映画館でしか見れないような表情筋の動き」
などという役者さんのインタビュー記事などを読むにつけ、
ビデオが一般化した今であっても、
ビデオで見ることは、
いわば絵画を画集で見るような、
見る側が想像力による補正を必要とする行為なのだろう。

映画の中身には、映画館が含まれているようだ。

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本はどうか。
本の本質、本の中身は、書かれている言葉だろうか。
私は最近、特に本の本質について考えるようになった。
スマートフォンを使い始めた当時、
私は1冊の電子書籍を購入した。
pdfでも、Kindleでもない、電子書籍。
その小説は、もう、読めない。
どういうファイル形式だったのだろうか、
OSが上がったタイミングで、開かなくなってしまった。
サポートが終了したのだろう。

私は、iPadやKindleを、まだ所有していない。
読んだ本はなるべく捨てるように生きてきたが、
それでも、“どうしても捨てられない本”で、
本棚は一杯だ。
だが最近、改めてそれらを開いてみると、
ほとんどの“どうしても捨てられない本”は、
もう、老眼で読めないことがわかる。

私は、フォントの大きさを変えられる、
ブルーライトのない電子書籍に移行すべきか。
その端末、そのファイル形式は、
私が生きている間、稼働してくれるのか。

新しモノが好きな人や、若い人に話を聞いてみると、
「なんか結局、紙ですよ」と、
紙の本を読んでおられたりもする。
装丁など、明快に言うことができる価値以外にも、
何か「紙の本」でなければならない理由があるようだ。

(でも私はもうじき、かなりの本を捨てることになるだろう。
老眼で読めないんじゃぁ、もうしょうがない。)

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今後、5G回線などが普及して、
ロスレス音源、すなわち、
CDと全く同じデータのストリーミング配信が
当たり前になったら、
私はCDを手放すのだろうか。

データが同じとして、
そのためにPCを立ち上げ、
そのためにDAコンバーターを買い、
そのためにアンプを買って、
今のヘッドフォンにつなげるなら、
音質は今と大差なくなるだろう。

だが、音楽を聴くのに、
パソコンを立ち上げるか?
あるいは、スマホなどからロスレスの状態で外に出せるか?
画面の光が音楽を聴く妨げにはならないか?
そもそも、様々な人がロスレス配信を聴き始めたら、
電波帯は持つのだろうか?
どこかで自動圧縮は入らないのか?
曲間の無音など、
CDプレーヤーに入れなければ仕様的に体験できないものは、
もはや始めからなかったことになるのだろうか?
ジャケットデザインは1枚の画像だけになってしまうが、
ライナーも含めて電子書籍のようにファイル化するのか?
以上のような思考可能な問題以外に、
本のように、「なんか結局、紙ですよ」、
なんていう、思考化できない実感を理由に元に戻ったりしないだろうか?

なってみないとわからない。

CDアルバムの中身における、
44.1KHz/16bitデータ以外のものが、
ある日、不要となるのかどうか。

ただ、CDを作る最小ロットを考えるにつけ、
今後、私を含め、ニューアルバムをCDという形式で
出すことは、ますます難しくなっていくだろう。

(返す返すも、映画はいかにして生き残ったのだろう。
テレビが普及し始めた時代から「もう終わり」と言われ続けて、今も生きている。
どれほどの人々がどれほどの知恵と努力をそこに注ぎ込んできたのだろう。)

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話はいったん飛ぶ。
私がこの場所でブログを書いているのは、
この場所が、ある程度、
自分が思った色やレイアウトにできているからだ。
(スマホの方はちょっと読みづらいかもしれません。すいません)

でも、思った通りといっても、
そもそもこれがブログという入れ物じゃなかったなら、
文体はだいぶ違ったものになるように思う。
これが別のデザインのブログになったり、
そもそも別の入れ物になったりしたら、
全く別の文章になったり、
そもそも書くことができなくなったりするかもしれない。

自由に書いてはいるが、入れ物に合わせてもいるわけだ。
そういう意味では、メディアとのネットワークで、
このブログは書かれている。

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話をはじめに戻す。
私にとって、フロッピーディスクやMOディスクの中身は、
中に入っているデータ以外の要素は、なかった。
フロッピーディスクでなければ体験できないもの、
MOディスクでなければ体験できないものは、
私の手元には、なかった。
世の中にも、そういうものはほとんどなかったと思う。
(90年代、自主制作フロッピーディスクなるものを
池袋の ART VIVANT というお店で買った覚えがある。
中身は興味深いテキストファイルだったが、
そのフロッピーは散逸してしまった。)

つまり、一口にメディアといっても、
メディアとのネットワークの中で「作品」となっているものと、
中の「データ」だけが作品・内容・価値であって、
そのデータが入っている入れ物(メディア)は、
全く価値がないものとがあるわけだ。

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さて。
私は心血を注いでデータを作る。
それを誰かが受け取って下さる。
そのあいだにある、沢山の「入れ物」。
それらの、どれに、どのぐらい、
どういう種類の、価値があるだろうか。

Windowsとか、iPhoneとか、GAFAとかが、
ある日、別の何かに移行したら、
私は、惜しいと思うのだろうか。

何か、私(たち)の間に、
まんべんなく、広大な虚無が挟まっていて、
それが虚無過ぎて、私(たち)に見えていないような気がするのだが。

OSやプラットフォームはメディアじゃない、
そう言われれば恐れ入るばかりだが。

MOやフロッピーがなくなる日が来るなんて、
15年ぐらい前には想像してなかった私が、
何か、分かってて当たり前の何かに、
今になって気づいただけなのだろうか。

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こんなことを考え、言語化しても埒が明かないので、
そもそも言語化・データ化できないような、
その場でしか経験できないライブをやって、
それをどうにか録音物として聴いていただけるように調整して、
USBメモリで売って
あとはライブの模様を、
半ば記録、半ば次のライブへの宣伝という位置付けで、
Youtubeに公開しているわけだ。

フロッピーとMOを捨てるときに、
あまりにも惜しくなかった自分に驚き、
この文章を書き始め、
気づいたら数時間経っていた。
ざっと推敲しても、
まだうまくまとまり切っていないように感じる。
だが、推敲する時間は、あまりない。

この時間と気力を、
前回のライブダイジェストの編集に使えばよかったんだろう。

だが、書いてしまった。
しょうがない。

「元型ドローンVol.17」文章の下書きを公開 

先日の電子持続音ライブ「元型ドローンVol.17」で、
ご来場の皆様にお配りした紙の、
下書きをここに公開します。

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曖昧な薄明が続く。
そして時折、突発的な寸断が顕れる。

それがあまりにも巨大なせいで、私たちはそれを見渡すことができない。
私たちはその飛沫を、
人生における突発的な寸断のように体験する。
その突発的な寸断は、私たちすべてに、個別に顕れる。

それでいて、曖昧な薄明は続く。

人間らしさは、寸断されない側にある、ように見える。

そこに「ない」ように見えるものについて。

寸断によって目覚める。死の門が見える。
存在しない側に還る。この衰退を進む。
丁寧に降りる。或いは後ろ向きに登る。
毎瞬間、毎瞬間、
わずかばかりの永遠を噛み締めながら。
追記/補足を読む

老化、刷新、肉離れ 

前回のライブの1週間ほど前だったろうか、
作業していたノートパソコンが壊れた。
予兆らしき予兆もなく、「ハードディスクが不良です」とエラーが出たっきり、
まるっきり動かなくなった。

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ノートPCを買い替えた時に“購入ポイント”も入ってきたし、
ちょうど仕事の切れ目だし、と、
音楽用のタワーPCも買い替えることにした。

昨年末、タワーPCを梱包していて気づいたのは、
自分の身体の衰えであった。
数年前から筋トレなるものをやってはいるが、
筋肉ではカバーしきれない、
重いものを持つことが難しくなっていく“実感”。
1か月に数回のペースでぎっくり腰をやっていた時期とも全く違う、
言葉で正確に言い表すことのできない、いわく言い難い“実感”。
多少は筋力の問題なのだろうけれど、
筋肉よりももっと本質的なところで、
何かが始まっているように感じる。

この先、重いものを持つことが、
どんどん難しくなっていくらしい。

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そういうわけで、年末年始、
自宅にある、かなりの機材を、処分した。
あるものはネットオークションで売却し、
あるものは楽器屋さんに下取りに出した。

一番重い機材は、ハードケースに入れて30キロ弱だろうか。
昔はこの機材を、気合と根性で階段から上げ下ろししていたのだが、
この先はもう無理だろうし、
この機材を実戦で最後に使用した時を思い起こすと、
たぶん2012の楽曲であったろうと思う。
今は2019。かなり長い間、使っていない。
これでしか出せない音がある、
自分ですら二度と作れない音がメモリーしてある、
と思って維持してきたが、
なければないなりに、音楽は作れそうだ。
体力が残っている今こそが、
整理どき、刷新どきなのだ。

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腰痛コルセットを巻いて、
注意深くハードケースに入れ、
注意深く、時間をかけて、玄関まで持っていく。

下取りに出ていく機材たち↓

(中には30年ぐらい使い続けたものもある)

――これでいい。
あとは、楽器屋さんが手配してくれた、
運送業者さんが来るのを待つだけだ。

運送屋さんから電話が来る。
(聞いたこともない業者さんだ)
あなたの家の場所がわからない、という。
現在地を訊けば、自分の家から50mほどのところまで来ている。
そこを引き返して直進です、と言っても、要領を得ない。
電話の向こうが、ひどく、たとたどしい。

玄関の前で穴から覗いていると、
人影がやってきて、きょろきょろと、
たどたどしく、部屋を探している。
たまらず、向こうがドアベルを鳴らす前に、こちらからドアを開ける。

ぱっと見、70代らしき男性である。
笑顔で、荷物を取りに来たと言われる。
これです。重いですよ、と言うと、持ち上げるなり、
「ああ、こんなに重いもの、生まれて初めて持った」
と笑顔で言いながら、階段を下りていく。
階段の向こうから、ガシャン!ガシャン!と、
けたたましい音が聞こえてくる。
重すぎて、階段のあちこちに、ぶつけているらしい。
慌てて自分も下りていき、
機材の片側を持つ。
「いやぁ、助かります。それにしてもこんなに重いものがあるなんて」
と、業者の男性、笑っておられる。

どうにか車に積み込んで、伝票にハンコを押します、というと、
「ああ、伝票。あった方が安心ですよねぇ。」
と、ひどくたどたどしく、時間をかけて、伝票を書き始める。

じゃあどうも、と、70代らしき男性、笑顔で去っていった。

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運送業の前はどのような仕事をしておられたのだろう。
日に焼けていて、屈託なく、
30Kgのものを「生まれて初めて持つ」。
造園業だろうか。なんだろう。

もちろん、その人に対しても、
手配をした楽器屋さんに対しても、怒ったりはしない。
歳をとって、たどたどしく、
「こんなことは生まれて初めてだ」
と驚きながら生きていく老人というのは、
どう考えたって、
近未来の自分じゃないか。

小津安二郎の映画に出てくる、笠智衆が演じる、
「お父さんの人生はもう終わりに近づいているんだよ」
という老人の年齢と、今の私は似たり寄ったりだし、
ヴィスコンティの映画「山猫」に出てくる、
「山猫は山猫のままだ」
と威厳をもって年老いていく主役の設定年齢は、
40代なのだそうだ。私より年下じゃないか。
なのに、人生も、生活も、終わらない。
次から次へと、やらねばならないことは増えていく。
若くあらねば、社会生活が営めないのだ。

こんなにも長く、延々と、
若くあらねばならない時代、
そうでなければ生きることも死ぬこともできない時代というのは、
人類史上、前例がないのだ。

これが21世紀初頭、
これが超高齢社会なのだ。

「もう重いものを持てなくなるぞ」と、
重いものを手放す自分も、
それを「こんな重いものを初めて持った」と運んでいく年上の男性も、
超高齢社会の一員なのだ。

真新しいノートPCをブルーライトカットモードにして、
その上ブルーライトカット老眼鏡をかけ、
ドライアイ用の目薬を差しながら、
こうしてブログを書いている。
これもまた、21世紀の姿なわけだ。

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人間がある程度成長しきった後に、
思いがけず訪れるものについて考える際に、
近年、頻繁に、というか一日に何度も、
タルコフスキーの映画「サクリファイス(1986)」を思い出してしまう。

(今、「86年だったよな」と念のため検索したら、
自分がタルコフスキーの没年齢と同い年であることに気づいた‥)

いろいろな人が、いろいろに解釈するあの映画だが、
私がいま考えているのは、
鈴木大拙著「日本的霊性」でいう「霊性」にちょっと近い、
思考不能な領域というか、
思考も感情も意志も通用しない、
むしろ思考や感情や意志・衝動が、
そこからやってくる、とでもいうような、
広大無辺な領域について。

「サクリファイス」の中盤、
郵便配達人の男が、ストーリーの中で突然、
大げさなまでに激しく、卒倒する。
やがて、自分の身体(?)を見下ろし(?)ながら、
「これはいったいどうしたことだ」
と、笑顔で、ゆっくりと、起き上がる。

あのとき、何が起こったのか。
霊性が流入したともとれるし、
急病だ、ともとれる。

ラストシーンの主人公の室内における身体の動きも、
霊性が入ってあの歩き方になったのだ、とも見えるし、
脳梗塞の動きだ、ともとれる。
ダブルミーニングなのか、一如なのか。

老化とポストモダン、
上昇停止体験とその先にある“何か”、
獲得と同時に生じる喪失、
何かが顕現するときに生じるある種の“抜け”、
行為と不行為の同時性、
そういったものについて、
近年、ことあるごとに、考え続けている。
元型ドローン」と名付けたライブシリーズだって、
その問いかけであると同時に、その答えでもあるようなことを、
やらせていただいている。
(来てくださる皆様、協賛のストライプハウスギャラリー様、ありがとうございます。)

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重い機材を手放して三日後のことだが、
それにしてもこの“感じ”を、
音にするのみならず、
どうにか思考なり言語なりで、
取り扱うことはできないかなぁ、
“これ”をどうにか観察したり、
コントロールしたりできないものかなぁ、
などと考えていた。
食事が終わり、席を立とうとしたとき、
突然、足に激痛が走り、
そのままその場に倒れこんでしまった。

気を失いはしなかったし、
笑顔にもならなかったが、
倒れ方としてはまさに、
「サクリファイス」の郵便配達人のような倒れ方だった。

病院に行くと、
「エコーには映らないけど、この症状は肉離れだろう」
ということで、治療が始まった。

いま、30cmぐらいの歩幅でしか、歩けない。
常に周囲に気を配り、
誰かの邪魔になっていないか、
あの信号は渡れるか、
この食べ物を持って、階段を昇れるだろうかなどと、
たどたどしく歩きながら、頭は、フル回転だ。
ちょっとでもバランスを崩すと、
足に激痛が走って、全身の力が抜けてしまう。

そのようにたどたどしく歩きながら見回すと、
今まで目に入らなかったけれど、
そういう人の、なんと多いことか。

普段なら「酔っ払いかな」と思いながら、
足早に通り過ぎるような光景でも、
ゆっくり歩いて聞いていると、
警察官が「体に力が入らないんでしょ?救急車に来てもらおう?」
と、転んでいる男性に、親身に話しかけ続けている。

普段使わない駅のエレベーターを使うと、
非常に多くが、足元のおぼつかない高齢の方々である。
特に足元のおぼつかない高齢の方から、
強い尿のにおいがしてくる。
私は、いつか読んだ、高齢者の嗅覚障害に関するブログや、
介護職の人が高齢者とハグするとき、
実は尿失禁をにおいで確認しているのだ、
というドキュメンタリー番組を思い出す。

なるほど。
これが新時代か。
こんなことは初めてだ。

こうして、未体験な世界に、
たどたどしく、入り込んでゆく。

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それにしても、
「サクリファイス」の郵便配達人も、
機材を持って行った運送業の男性もそうだが、
“これ”を体験しながら、
笑顔でいる人々が、かなりおられる。

以前から考えていたことだが、
能面「翁」の笑顔と、老化との関係。

アルツハイマーの症状に、
「多幸感」という項目を見つけたとき、
これはひょっとして、と思ったものだが、
アルツハイマーにおける多幸感(多幸症)と、
霊性との関係はどうなっているのだろう。
全く別のものなのか、実は一如なのか。
(或いは、いわゆる「防衛機制」、「躁的防衛」との関係は。)

若い頃さんざん考えた、
シャマニズムにおける主観・客観とも、
これはたぶん、つながっている。

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わかりやすい文体で有名な臨床心理学者、河合隼雄氏だが、
老いに関する記述となると、
「老いの道は老いの未知」
などと駄洒落まじりで、
読んでいて、なんだか要領を得ない感じがしたものだ。
あれは当時、自分の身に起きていないことを読んだので、
いま読み返せば、また違って読めるのかもしれない。

天才的な舞踏家、大野一雄氏が、
ご自身のお母さまの最後の言葉だという、
「私のからだの中をカレイが泳いでいる」
という言葉をイメージの題材によく使っておられたが、
考えてみれば、大野一雄氏のお母さまは、
ご自身の身に起きていることを、
「実況」なさっていたのかもしれない。

体験してみなければ、わからない。
だが、参考にはなる。

いずれにせよ、大半がこれから体験することなわけだから、
「こんなことは初めてだ」
と驚きながら、
たどたどしく、やっていくしかないのかもしれない。
考えてもしょうがないことばかりだが、
考える以外にしょうがない、とも言える。

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肉離れは2~3週間は痛みが続くので、
そのあとリハビリに入りましょう、
と言われている。

4月のライブには間に合うだろう。
まあ、間に合わなそうになったら、
機材の運搬方法を考え直せばいい。

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さらっと書くつもりが、
そこそこ長い文章になった。
もうちょっと小分けにして、
日々書いた方がいいのかもしれないが、
なかなか時間も取れないし、
自分の身に起きていること、
自分が考えていることが、
規模的に大きくなっているように思うし、
それをまとめる気力も衰えてきているようにも思える。

というわけで、
ここまでお読みいただき、
ありがとうございました。
(もうちょっと威勢のいいことを書いた方が集客にはいいんでしょうけどねぇ)

あ、ライブよろしくおねがいします。次回は4/14です

台風、ホステル、櫻井郁也 

日々が忙しく、
ああ、あのことはブログに書こう、
このことはブログに書いておこう、と思っても、
そのブログに書くための、
短いメモの書き付けばかりが増えていく。

年を取ってから、今後どんな新しいチャレンジをしていくか、
というような話題をしばしば聞くので、
自分でもしばしば考えてみたりもするが、
そもそも新しいチャレンジなど、
外からこちらに向かってくるものではないか、
という思いもある。
放っておいても新しい経験は向こうから来るし、
今まで経験してきたことも、
放っておいたら未経験のことに変わっていく。

以下は、そんな感じの話です。

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スマホのメモを見ると、9月30日。ずいぶん前だ。
櫻井郁也のダンス公演「白鳥」を見る数日前から、
この日は東京を台風が直撃するのではないか、
と天気図を見ながら思っていた。
舞踊家・櫻井郁也氏は旧友ということもあってか、
東京での公演は欠かさず見るようにしてきたので、
台風ごときを理由に予約をキャンセルするのもちょっと違う。
かといって、台風が来そうだという理由から、
予約の日にちをずらすのも、ちょっと違うとも思う。
ほかの人も台風を見越してずらして見に行くだろうし、
全席自由とはいえ客席が必要以上に混雑したら、
公演の制作側に迷惑がかかってしまう。
この日、電車が止まったどうしよう。
などと、会場近隣のホテルの予約サイトを見ながら考えていた。
こういう場合ホテルを取るという行動も、最適かどうかは確信できない。
元来の引きこもり性格やら生来の方向音痴もあって、
ほとんど旅行というものに興味を持たず生きてきて、
これじゃいかん、と思い立ち、
一人でホテルを取って、地図アプリを頼りにどこか行ってくる、
などという行動ができるようになった近年ではあるが、それにしたって、
電車で2時間弱のところに行くためにホテルに泊まるのはどうなんだと。
贅沢ではないかと。
じゃあホテルの予約を取らず、電車が動かなかったらタクシーか。
電車で2時間弱のところをタクシーで動いたらいくらになるんだと。
贅沢ではないかと。
そもそもタクシーがつかまるかどうかも、当日わからないじゃないか。
テレビでは不要な外出を控える呼びかけも始まっている。
台風の中、雨合羽で自転車通学していた高校時代の経験は、
もう、判断材料にならないようだ。

さてどうしたものか、とパソコンの前で悶々といていたところに、
櫻井郁也公演を予約した日の夜以降、
電車がまるごと運休となるニュースが届いた。

これは選択の余地はあるまい、もはや考える猶予はあるまい、
とホテルの予約をクリックしたら、
あれ?あれ?とクリックしても、
あっという間にどこもかしこも満室となった。
なるほど、電車が動かなかったらこの日はホテルに泊まろうか、
などと思っているのは私だけ、なわけがない。
日本中に「どうするか」とパソコンの前で考えてる人がいて、
日本中で一斉に「電車運休」のニュースが配信されたのだ。
で、みんな一斉にクリックした。

さてどうするか、と検索していると、
公演会場からほど近い場所に、
「ホステル」なる宿泊施設を見つける。
どんなものかもうまく想像できないが、
もはや選択の余地はない。予約をクリック。

それにしても、都内の電車が動かないようでは、
公演を見に来る人はほとんどいなかろう、
ひょっとすると私ひとりである可能性すらあるな、
などと思いつつ、当日、会場に足を踏み入れたら、
観客が大勢おられる。
いつもの半分弱、といったところか。それでも多い。
電車が動かない状態でこれほどの人が見に来るのか、
と内心驚きながらの本番であった。

本番はいつもより(物理的に)動きの大きいものとなったので、
本番後に櫻井郁也氏に話を聞いてみると、
感謝もあっていつもより多めに動いた、というようなことを仰っていた。
(後日改めて詳しく聞いてみると、台風が来ても、電車が動かなくても見に来るような人だけが見ていたせいか、観客から受けるエネルギーがいつもと違っていた。だからこちらもそのエネルギーを反映したのだ、とでもいった意味合いのことを仰っていた。なるほど。わかりやすい。)

そして公演後、風の吹きすさぶ、
人もまばらな都内の夜道、
地図アプリを頼りに、とぼとぼと「ホステル」へと歩く。

なにせ初めての経験なので、
ひどくまごまごして中に入る。
受付も、私のような旅慣れていない人間に、慣れていない。
ビルの中に、昔の「寝台車」のような2段ベッドが延々と続く。
あなたのベッドはここです。トイレは共同のここ。
1階に降りてくればコーヒーがあります。
外出するときはこう。帰ってくるときはこう。
あと数十分で受付が終わるので、受付はいなくなります。

さて、これからどうする。
見渡す限り、ベッドのカーテンはほぼ閉まっており、
廊下に出る人もほとんどいない。
しかも、空きスペースにびっしり入っているスーツケースからみて、
ここに泊まっているのは殆ど外国人旅行者のようだ。
(なるほど、これがインバウンドというものか)
人がびっしりいるはずのビル内はしんと静まり返り、
50代後半~60代前半とみられる入れ墨の入った日本人ご夫婦が、
廊下に足を出して座りながら、
「こんなとこで眠れるわけねえじゃねぇかー!」
とけたたましく笑っている以外は、
騒いでいる人もいない。
(つまり、耳をそばだてる限り、日本人が一番マナーが悪い。)

さて、この状況下でどうにか明日まで過ごすのだな、
と、カバンに入れておいたカロリーメイトをベッドの上でもしゃもしゃ口にしながら考える。
食べ終わっても、ごみ箱の場所すらわからない。
とりあえず歯を磨かねばな、と思ってトイレの方向に向かうのだが、
これだけでも、けっこう道に迷う。
カーテンの閉まった2段ベッドが立体的に続くだけの間取り。
昔のTVゲームのシンプルなダンジョンみたいだ。
あちこち行き止まりになりながら、
ここを右、ここは左、とどうにか洗面所に行き着く。
が、蛇口が並び、鏡が貼ってある洗面所に、
極めてラフな部屋着を着たうら若い白人女性がおられて、
熱心に爪の手入れ(らしき何か)をしておられる。
ここで歯を磨いていいのか?オレの行動合ってるか?
と不安に駆られるが、見本となる人はいないし、
紳士用トイレにだって蛇口はない。
仕方なく歯を磨き始める。
歯を磨き終わってから気づいたが、コップがない。
紙コップもないこの場所で歯を磨いたオレの行動合ってるか!?
と不安に駆られるが、もう後戻りはできない。
蛇口から手で水をすくって、口をすすぐ。
幸いにして若い女性、ご自分の爪に夢中なのか、
こちらの挙動不審を気にかける気配はまったくない。
戻り際に疲れ果てたご様子の極度に軽装な白人男性が入ってきて、
ああ、少なくともここは男女共用の場所だったのだろう、
ぐらいには思ってベッドに戻る。

カーテンに手をかけると、レールごと外れそうになる。
カーテンレールが“つっぱり棒”なのだ。
カーテンを閉めた状態でも、照明が眩しい。
カーテンの隙間から入ってくる電球色LEDの明かりでも、
目が痛いほど眩しいのだ。
(おそらく、今後LED~ブルーライトの目へのダメージは世界的な問題となるだろう。分母は数十億人。)
夜11時を過ぎたときに、人が歩いてくる気配があって、
LEDの光を弱めて立ち去っていった。
これでどうにか眠れる明るさになる。

が、10月だというのに、台風一過、暑い。
こんなに暑いことありえるのか、とカーテンから首を出して見回すと、
一応エアコンはついているようだ。
だが廊下でもかなり暑い設定温度の上、
寝台車のような個室を並べた構造で、
空気を入れ替える仕組みもなく、扇風機もなく、
ただただ空気が滞って、こもって、ベッドの中が、暑い。
ホステルというもので最も想像していなかったのは、この暑さだった。
私の子供のころにはエアコンなどというものは存在しなかったが、
もう生まれ育ったころ自明のものとして持っていた、
「エアコンなしで眠る」という能力は、
失われていることがわかる。

時々、どすっ、という低音が響く。
周波数で160~250Hzぐらいのごぼごぼした低音。
寝返りの際に、誰かが壁を蹴るのだ。
壁は非常に薄い構造のようで、壁の向こうは空洞らしい。
この響き方では、壁の裏に吸音材は入っていないのかもしれない。
どすっ、また響く。
参ったなこれ、と自分が寝返ると、壁を蹴ってしまって、どすっ、
なるほど、これは足が軽く壁に触れるだけでどすっ、といってしまうのだな、
逆にこんな些細な音がこのぐらい響くのに、
これほどこの部屋が静かだということは、
この部屋にびっしり泊まっておられる外国の人々は、
こちらの想像をはるかに超えて行儀よく、
紳士淑女として泊まっておられるということか。
(先ほど騒いでいた日本人夫婦のいびきが聞こえてくる)
こういう場所でのマナーは何となく自分は適応できると思っていたが、
外国の人々のほうが行儀よく、慣れて行動しておられる。

もともと粗末な住環境で育ったし、
銭湯暮らしも長かったし、
こういう共同的な場所への耐性は高いような気がしていたが、
過去の経験はあまり役に立たないようだ。
自分が、ここでは不慣れな新参者であることが、よくわかる。
それにしても暑い。どすっ。
暫くして誰か二人連れが帰ってきて、英語で何かを話し、
すぐにまた静寂が戻ってきて、どすっ。
2段ベッドの上、手が届きそうな天井を見つめながら、
息を殺してじっとしていると、
いろんなことが頭をよぎる。
自分が棺桶に入っているような気もしてくるし、
これで音環境がもっと悪かったら、
ひょっとして、老人ホームに横たわり続けるというのは、
このような経験なのではないか、という考えもよぎり始める。どすっ。
「いま旅をしている最中だ」とか、「この経験の先に何か希望がある」とか、
そういった、いわば“通過点”という意識がなければ、
この環境には長期間いられない気がしてくる。どすっ。

考えなくてもいいことを考え始めてしまったので、
睡眠導入剤を水なしで飲み込み、無理やり眠った。

翌朝、電車の中から見た朝日の、
なんと美しかったことか。
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