新しい冬、新しい孤独 

枝を切られ、寒さで葉が落ち、歪んだ樹木が、
なぜ“救い”のような感情を引き起こすのか、
と考えるに、

似たような境遇にあって感情を持たずにいる樹木を、
似たような境遇にある人間が見上げているから、
なのだろう。



(――見知らぬ別れに寄せて)

浸食 



久しぶりに太平洋岸に来てみれば、
なるほど、砂浜は浸食されている。
かつて海岸までしばらく歩いていたような場所でも、
満潮が近づけば、もはや人が立つ場所もない。

海岸浸食。
その原因や対策(の模索)は、
人伝えに聞くこともできるし、
たくさんの記事を読むこともできる。

ただ、自然について、ひいては人間について、
最も深い考察を得ることができたのは、
実際に目の当たりにしたこの光景における、
水の筋であった。

消波ブロックに渾身で突っ込み、
ばらばらになり、激しく、多様かつ一様に、
幾度も引き返していく水の筋。

この水の動きから、
言語化も、数値化もできないものを、
どれほど深く読み取ることができるかということ。

目の前の、あからさまな秘密。

憤怒相 

funnusou2018_1.jpg

道端にある
聖なる 怒りに
 救われている

夕闇の屹立 



多様な枝分かれに任せ 自然なままに 倒れるか
枝を切り捨て 幹を生かし続けるか
どちらを 選ぶのか は
自分が 幹か 枝かによって 変わる
元々 一体であることが わかってさえ いれば
痛みは どちらも 変わらない

はずなのだが

人口減少 



ジョルジョ・デ・キリコの描く街や、
C・D・フリードリッヒの描く廃墟と、
今自分が歩いている、人気のない住宅街を比べてみる。
そこにはキリコとも、フリードリッヒとも、
まるで違う虚無、全く違う廃墟が見えてくる。
既視感も、未視感もなく、郷愁も感じない気配。
これはまだ、芸術家によってうまく名付けられていない何かだ、と感じる。

社会科学の人々は、それを当たり前のように「人口減少」と呼ぶ。

私にできることは少ない。