私事、 

父の容態が芳しくないのです

音楽氷河期/二重に逆転する休符 

私は まだ 無音を 信じている
無音という音楽を 信じている
そんなふうに ひとりぼっちに なっていく

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追記/補足を読む

無常過多 

生きてるうちに、
何度も死ぬ。
何度も何度も殺される。

気づくと生き返っている。
またはじめから、
歩きかたをころびながら憶え、
話しかたをつっかえながら憶え、
食べかたを、生きかたを、働きかたを憶える。
そこでまた死ぬ。成長はない。
労苦のプロセスそれ自体も、魂の成長に関係がない。
ただひたすらマイナスからゼロを目指す。それだけ。
決して何かの力がつくことではない。
意味のある経験とは思えない。

そしてまた死ぬ。志半ばで殺される。
そしてまた、なにもかもやり直す。

明治時代に入って、福沢諭吉は、
「まるで人生が2度あったようだ」と述懐したそうだが、

今この時代を生きるということは、一体どういうことなのか。
かつてこれほどまでの時代があったのか。

文明の末期とはこういうものだ、という学者もいるが、
ちと多すぎやしないか。

この一年程の近所 

べつに、
歩いてて邪気を感じるとか、
負のエネルギーを感じる土地だとか、
そう思ったことはない。

だがこの一年ちょっとの間に、やけに多くの事が起きた。

まず去年、自宅から徒歩3分程のところで、
私自身、突然気を失って、路上に卒倒した。

そのすぐあと、倒れた地点から数十メートル先で、
「いったいどうしてこんなことが」
とニュースで特集を組まれるような、
異様な交通事故が起きた。

そこから2分ほど歩くと、
「いったいどうしてこんなことが」
とニュースで特集組まれながら、
非常に不可解な形で失脚していった、
政治家の事務所がある。

そこからさらに3分ほど歩くと、
「いったいどうしてこんなことが」
とニュースで特集組まれるような、
異様な殺人事件が起きた。何人も亡くなった。

気に病んでるというほどでもないが、
「禍々しい場所に住んでるなぁと思います」と、
行きつけの鍼灸師(禅僧)に話したら、
呵呵大笑された。

その笑い声を聞いてて、なんかうまく言えないけど、
「禅だなぁ‥」
と思った

手の届かない深い場所から 

深い怒りが身体を蝕む 蝕む

符合に気付いても 

毎日、眠くてだるくて仕方がない。
入れ替わり立ち代り顕われる体調不良。
こんな体調が何年続いているだろう。
もういいかげん、周囲もあきらめはじめている。
その上に、複数の身内の体調不良が重なって、
身動きがさらにしづらくなった上に、
時代の烈しい変化に晒されて目標も見えなくなり、
気力すら衰えてきてしまった。
気力を振り絞ってショップに挨拶に行っても、
取引打ち切りや売り場そのものの閉鎖を言い渡され、
返品伝票の整理で気力を使い切ってしまう。
まるっきり未来がない。

―こんなんじゃいかん。

そう思って、観ようとしていたダンス公演。
10年来、メールで知り合っているダンサーのソロ。

奇妙としか言いようのない知人。
一度も会ったことがない。メール以外で話したことがないのだ。
元々の話題は、ダンスというより、神秘学に関する話題だった。
そしたら、ダンスとも神秘学とも全く関係がなくて、
居住地域もまるでちがう、非常に身近な私の知人の、知人だった。
何の符号なのか皆目判らない。
だが、あの人の公演を観て、あの人に会えば、
何かの歯車が動き出すかもしれない。

そして10年ほどの時を経て、昨日、
その人のダンス公演を見る機会に恵まれた。
そしたら、一体どういうことなのか、
昨日、自宅で突如眠くなり、気を失ったように眠り、
目が覚めたら公演が終わっていた。
「観るな、会うな」という力でも働いているのか。

そして明日、私はどういうわけか、意図せずして、
別のダンサーさんの公演を2つハシゴで観ることになった。
こんなことは初めてだが、
友人がダンサーさんに引き合わせてくれるとの連絡が入った。
ありがたいことだ。でもなんでこうなった?
なぜ私は明日2つのダンス公演をハシゴで観ることになった?
思い出せない。

今日は勉強半分、遊び半分で、映画を2本観たが、
全く意図せず、どちらも“引越し”の話であった。
「引っ越したら幽霊がいた」映画と、「引っ越したら泥棒が入った」映画。
何の符合か皆目判らない。

観終わって、つい最近読み終わった「海辺のカフカ」を
ぼんやりと思い出していた。
登場人物の、四国の小さな図書館で働いている女性のことが、
読み終えてからもずっと心に引っかかっていたのだ。
夕方、ポストを見たら、封書の手紙が届いていた。
女性からのファンレターだった。
四国の小さな美術館で働いている方だそうだ。

色々なことが符合していく。
何かが符合していくということは、
まだ私の人生は終わっていないということかもしれない。

だが、シンクロニシティがここまで多いと、
もう何がなんだか判らない。
コンステレーションも皆目読めない。
ゆえに、今この瞬間、何をすべきなのか、
結局のところ、皆目判らない。

“神の沈黙”には慣れた。
せめて“神の目線”くらいは感じたい。

昼寝 

深い眠りがほんの少し
患部に届くような気がする

アルバム単位 

最近になってやっと自分で気づいたんだが、
私にとって、音楽の単位は、「枚」である。
LP、カセット、CD、いずれにしろ、
音楽作品というものを、
「アルバム単位」で認識していたのだ。

他人の作品でもそうだし、
自分の作品を作るならなおのこと、
音楽を作るということは私にとって、何年もかけて一曲一曲、
“アルバム”に定着させていく作業以外の何物でもない。

基本的に、「音楽する」という行為を、
「アルバムを作る」作業だと思って生きてきたし
(それも20年近くだ)、
アルバムを作ってる最中に舞踏公演などの仕事をいただけば、
制作途中のアルバムから公演に曲が行ったり、
逆に公演のイメージがアルバムのどこかに影を落としたりもする。
だから、アルバムにダンス公演などの曲を挿入したり、
ソロアルバムの曲がダンス公演に使用されたりする。
アルバム中心に生きているから、内的作業が入り混じるのだ。
幸いな事に、今までご一緒させていただいたダンサーさん達も、
そういう入り混じりを快諾して下さる方が殆どであった。

考えてみれば、アルバムという概念は、
絶対的なものでもなんでもない。
そして、急激に薄れつつある。
(完全になくなるのかどうかはまだ判らないけれど、
街のCDショップに行けばCDの売れ行きの落ち込みは明らかだ。
私自身、今年に入って既に2ヶ所のショップを失った。)

メジャーの人たちは、あらゆるフォーマットに対応し、
あらゆる販路を確保している。
小規模なレーベル会社は別だが、自主制作としてのインディーズには、
商品番号の登録すら煩悶の極みである。
CDを手で売るか、さもなきゃMP3を実費で無料配信するかしかない。
(逆にメジャーでは、在庫を抱えるリスクのある曲は配信だけだったりして、
大規模で多岐にわたる販路を持たないインディーズの人々のほうが、
CDしか作れないから高音質で自作を発表できる、という状況も目にするが。)

ライブが苦にならない人、むしろ好きな人などは、ライブをやる。
ただひたすらライブをやって、ロビーでCDを売る。
生演じゃなくても、ノートパソコンにWAVでも仕込んで、
何かやってるフリでも構わないのかもしれない。

ライブ主体に考えず、録音を主体に考える人は、
アルバムという概念の位置付けを下げつつあるように思う。
仕事をもらうため、自己紹介のため、名刺代わりに、
CDを配っている人もいるのだ。

無論、以上のような人々を批判するつもりは毛頭ない。
逆だ。
バート・バカラックはソロアルバムを28年作らずにいたし、
適応力のある人々は着々と居場所を確保しつつある。
それどころか、居場所を信じられないスピードで移動させ続けている。
私にできる芸当ではない。

―私はこれから、何を目指して音楽すればいいのだろう。