20世紀を聴くちから
神秘学を学ぶ人の多くと同様、
私にとっても“朝の霊聴”は重要である。
過日、起き抜けに、
「過去に戻るのは‥…」
という霊聴を受けた。
多くの霊聴は微妙・精妙で翻訳や理解が難しく、
僅かな勘違いで台無しになるものだが、
今回は特に卑近な問題にも関係しつつの“回答”であったので、
ここ数日、この“霊聴”のことを考えていた。
(ちなみに、霊聴のなかで、こういう言いかけて止めるようなものは珍しい)
気付いたのは、「過去を見るのは」「過去を聴くのは」ではなく、
「戻るのは」であること。
そして、「‥…」という沈黙には、どこか「勧めない」とでもいうようなニュアンスがあったこと。
そんなことを考えながら、CD屋でCDを買ってきた。
・YMO「サーヴィス」
・(某有名トランペッター)「日本の詩情」
・赤星赤軍合唱団「ロシア愛唱歌集」
・細野晴臣「FLYING SAUCER 1947」
YMOのリアルタイム世代には、「サーヴィス」を買っていない人は多いと思う。YMOは「テクノデリック」で極限に達し、達した後も人気があって解散させてもらえないのでその次の「浮気なぼくら」で当時の“売れ腺”の曲を沢山やって「これから先はYMOは単なるお祭りとしてやります」と公言し、「サーヴィス」の頃には多くのファンは離れており、発売当時は「どうやら悪ふざけしてるらしい」という噂以外聞くこともなく、ご当人達も特に発売したことをあまりラジオ等で話さなかった。ずうっと後になって、インタビューで「あのアルバムは作った直後に殆ど忘れてしまって、聴きなおすこともなかったけど、今聴くと淡々と作ったので職人的な腕前が良く見えて、投げやりにやっても俺って結構できるじゃん、って嬉しくなる」などと言うのを目にするようになって、気になっていたのだ。
つまり、2000円ちょっとで気になってることを終わらせられるならと、YMOを私の中で終わらせるために買った。
某有名トランペッターの「日本の詩情」というアルバムは、そのトランペッターが日本のスタンダード・ナンバー(といっても殆どの曲は多くの日本人に忘れられているけれど)を吹いたアルバム。いま敢えてここで名前を伏せるのは、他でもない、アレンジが大いに失敗しているから。分厚い弦にエレピやギターといった大がかりな編成だが、アレンジャーさんは原曲も聴かされず調査する時間も与えられず「明日の朝までに全曲オーケストラアレンジして持って来い」とでも言われたのではないか、という想像がよぎる。アルバムにはトランペッターの名前だけがあり、伴奏者も編曲者も録音年も一切記されていない。
こういうものを買ったのは、私がそのトランペッターの60年代の曲が好きであることと、日本の大衆音楽が民謡の時代を終えてから、演歌や歌謡曲が確立される前までのメロディーが好きだから。大正時代などの。
私はこの時期の流行歌の、あまり編曲をいじっていない、歌唱も大仰でないものをしばしば探し回る。
ロシア“民謡”といっても、大抵のロシア民謡は20世紀に入ってから作られたものだ。これらのメロディーも好きなのだが、いい編曲、アレンジに殆どめぐり合わない。今回のCDも私には少々大仰過ぎた。唯一好きなアルバムは初期のポール・モーリア氏のものだが、アナログ・レコードしか持っていない。長年いっつもCD屋にあって、「いつでも買えるや」と思ってたら市場から消えた。ネットオークションで凄い値段で取引されている。
そういえばポール・モーリアの日本制作アルバムを全作BOXにしたものが発売される。4つに分かれてはいるが、買う以上は4BOX全部買いたい。しかし凄い強気の価格設定だ。4BOX買うと10万近い。
しかし、10万でロシア民謡のアルバムも手に入り、ポール・モーリアのあの曲が聴きたいと思っても手元にない、ということが生涯なくなるのなら、と心が揺らぐ。
しかし、買えばそのBOX〜箱〜の中から出てこれなくなるかもしれない。このBOXを買うことは私にとって“終わらせる”ことではなく、“戻る”意味が混入している…
驚いたのは細野晴臣氏の「FLYING SAUCER 1947」。細野さんの最新作。カントリー・ミュージック。40年代のアメリカの音の現代版。
1940年代のマイクを収集し、当時のマイク位置を予測し、現代のハイファイの録音機で録音した。似たようなコンセプトにB・ウィルソンの「スマイル」があるが、あれは60年代で記録が残っているし、何よりご当人がいらっしゃる。そのせいだろうか、あれよりこっちの方がどこか鬼気迫るものがある。ライナーには、「これはレコードの中にしかない幻想の音楽であり、20世紀文化に対するオマージュでもある」と書いてある。
録音芸術に対する、20世紀文化に対する、オマージュ。
私は、20世紀の80年代半ばに、殆どの音楽のアイデアは出尽くし、それ以降はサンプリング〜既成音楽の組み合わせが音楽の重要課題となり、90年代半ばに組み合わせも出尽くし、それ以降は音楽は殆ど変化していないと思っている。コンピューターの発達により、位相を揃える技術や、歪ませずに音圧を上げる技術が向上したが、未来を感じさせる音楽、私達を未来へ運んでくれる音楽を、私達はもはや聴くことはなくなった。(つまり、80年代以降に生まれた方々は、私がここで何を書いているのかよく判らないかもしれません。‥たとえば、ビートルズが初めて日本のラジオで放送されたとき、放送局に「ラジオから壊れたひどい音が出てる。放送事故だ」という苦情が殺到したそうです。そういう、本当に社会が震撼するような音楽、社会全体が変化してしまうような新しい音楽が、かつては存在したのです)
私はしばしば考えてきたし、これからも考えるかもしれない。
・私はアナログ機器がかもし出す曖昧な、微細な位相のずれを愛しているし、恒久的なノイズから浮き上がる音を愛している。例えばクラシックの電子音楽のCDで、同じ作曲家が70年代のものと最近MACで作ったものを混ぜて発表したものがあるが、作風がほぼ変化しないのに70年代の方が聴き応えがあるのは、その曲を曖昧な揺らぎと恒久的なノイズが下支えしているからである。コピー用紙は虚無だが、和紙はそれ自体永遠に飽きない質感を内包している。いわばその違いだ。
しかしこの趣味は古いだろうか。TVを見る限り、最近のJ-POPはカッチリ位相を揃えて極めてクリアに音を作っている。ここ数年の間に急速に流布したクリアさだ。
・メロディー。以前このブログにも書いたが、“メロディー”という言葉の意味が着実に変化している。最近も若い方と話していて思い知った。ロシア民謡、大正流行歌の強靭なメロディーを愛する私、21世紀の“メロディー”という概念をまだ体得できていない私は、過去の亡霊だろうか。
・花に見ごろがあるように、全ての文化には“盛り”の時期がある。50年代後半〜60年代前半の、保存状態のいいマイクは決して市場に出ない。同じものが作れないからだ。ハリウッドでは、今でもそういうマイクを大切に使っている。
シンセサイザーも、録音芸術全体も、知らないうちに最盛期を過ぎたのだろうか。それとも別の方角に進化していて、私は取り残されているのだろうか。
・最新作で改めて“録音芸術の凄み”を見せ付けた細野晴臣氏。しかし、恐ろしいことに、その成果は、40年代のマイクと、“セッションによる一発録り”にあった。自己の内界を録音媒体に一人注ぎ込み、「できました。」と人々にお渡しする時代は終わろうとしているのだろうか。
ここに二つの事実(と私には思えるもの)がある。
・私の知るありとあらゆる音楽と、音楽に関する技術は、最盛期を過ぎた。
・若い人と私の間に、何か決定的な聴こえ方の違いがあるが、それが何なのかいまだ判らずにいる。
多分、私は20世紀的人間なのだ。
ここで冒頭の“霊聴”に戻る。
「過去に戻るのは‥…」
ここで、さらに話を横にそらす。
日本の怪異の話は、多くが「カウンセリング的」である。
「悪に打ち勝つ」話は、実は西洋に比して少ない。
例えば、琵琶を鬼が盗む。
鬼のところに行く。特に剣で勇敢に戦うわけではない。
鬼の身の上を、じっと、ただ、じっと、聴いている。
聴いているうちに、鬼は琵琶を返してくれる。
もしも私が20世紀的な人間で、
20世紀に既に(私にとって)重要なものは出尽くしていて、
21世紀的なものは適応どころか欠片しか見えないのなら、
私がすることは、
20世紀のカウンセリングではなかろうか。
ロシア民謡も、大正流行歌も、アナログシンセによる内宇宙の顕現も、テクノも、セリー音楽も、音響系も、ジャズもパンクもヘビメタも、全部20世紀というひとかたまりにして、じっと、ただじっと、20世紀の身の上を聴くことではないだろうか。
あたらしい未来のために。
私にとっても“朝の霊聴”は重要である。
過日、起き抜けに、
「過去に戻るのは‥…」
という霊聴を受けた。
多くの霊聴は微妙・精妙で翻訳や理解が難しく、
僅かな勘違いで台無しになるものだが、
今回は特に卑近な問題にも関係しつつの“回答”であったので、
ここ数日、この“霊聴”のことを考えていた。
(ちなみに、霊聴のなかで、こういう言いかけて止めるようなものは珍しい)
気付いたのは、「過去を見るのは」「過去を聴くのは」ではなく、
「戻るのは」であること。
そして、「‥…」という沈黙には、どこか「勧めない」とでもいうようなニュアンスがあったこと。
そんなことを考えながら、CD屋でCDを買ってきた。
・YMO「サーヴィス」
・(某有名トランペッター)「日本の詩情」
・赤星赤軍合唱団「ロシア愛唱歌集」
・細野晴臣「FLYING SAUCER 1947」
YMOのリアルタイム世代には、「サーヴィス」を買っていない人は多いと思う。YMOは「テクノデリック」で極限に達し、達した後も人気があって解散させてもらえないのでその次の「浮気なぼくら」で当時の“売れ腺”の曲を沢山やって「これから先はYMOは単なるお祭りとしてやります」と公言し、「サーヴィス」の頃には多くのファンは離れており、発売当時は「どうやら悪ふざけしてるらしい」という噂以外聞くこともなく、ご当人達も特に発売したことをあまりラジオ等で話さなかった。ずうっと後になって、インタビューで「あのアルバムは作った直後に殆ど忘れてしまって、聴きなおすこともなかったけど、今聴くと淡々と作ったので職人的な腕前が良く見えて、投げやりにやっても俺って結構できるじゃん、って嬉しくなる」などと言うのを目にするようになって、気になっていたのだ。
つまり、2000円ちょっとで気になってることを終わらせられるならと、YMOを私の中で終わらせるために買った。
某有名トランペッターの「日本の詩情」というアルバムは、そのトランペッターが日本のスタンダード・ナンバー(といっても殆どの曲は多くの日本人に忘れられているけれど)を吹いたアルバム。いま敢えてここで名前を伏せるのは、他でもない、アレンジが大いに失敗しているから。分厚い弦にエレピやギターといった大がかりな編成だが、アレンジャーさんは原曲も聴かされず調査する時間も与えられず「明日の朝までに全曲オーケストラアレンジして持って来い」とでも言われたのではないか、という想像がよぎる。アルバムにはトランペッターの名前だけがあり、伴奏者も編曲者も録音年も一切記されていない。
こういうものを買ったのは、私がそのトランペッターの60年代の曲が好きであることと、日本の大衆音楽が民謡の時代を終えてから、演歌や歌謡曲が確立される前までのメロディーが好きだから。大正時代などの。
私はこの時期の流行歌の、あまり編曲をいじっていない、歌唱も大仰でないものをしばしば探し回る。
ロシア“民謡”といっても、大抵のロシア民謡は20世紀に入ってから作られたものだ。これらのメロディーも好きなのだが、いい編曲、アレンジに殆どめぐり合わない。今回のCDも私には少々大仰過ぎた。唯一好きなアルバムは初期のポール・モーリア氏のものだが、アナログ・レコードしか持っていない。長年いっつもCD屋にあって、「いつでも買えるや」と思ってたら市場から消えた。ネットオークションで凄い値段で取引されている。
そういえばポール・モーリアの日本制作アルバムを全作BOXにしたものが発売される。4つに分かれてはいるが、買う以上は4BOX全部買いたい。しかし凄い強気の価格設定だ。4BOX買うと10万近い。
しかし、10万でロシア民謡のアルバムも手に入り、ポール・モーリアのあの曲が聴きたいと思っても手元にない、ということが生涯なくなるのなら、と心が揺らぐ。
しかし、買えばそのBOX〜箱〜の中から出てこれなくなるかもしれない。このBOXを買うことは私にとって“終わらせる”ことではなく、“戻る”意味が混入している…
驚いたのは細野晴臣氏の「FLYING SAUCER 1947」。細野さんの最新作。カントリー・ミュージック。40年代のアメリカの音の現代版。
1940年代のマイクを収集し、当時のマイク位置を予測し、現代のハイファイの録音機で録音した。似たようなコンセプトにB・ウィルソンの「スマイル」があるが、あれは60年代で記録が残っているし、何よりご当人がいらっしゃる。そのせいだろうか、あれよりこっちの方がどこか鬼気迫るものがある。ライナーには、「これはレコードの中にしかない幻想の音楽であり、20世紀文化に対するオマージュでもある」と書いてある。
録音芸術に対する、20世紀文化に対する、オマージュ。
私は、20世紀の80年代半ばに、殆どの音楽のアイデアは出尽くし、それ以降はサンプリング〜既成音楽の組み合わせが音楽の重要課題となり、90年代半ばに組み合わせも出尽くし、それ以降は音楽は殆ど変化していないと思っている。コンピューターの発達により、位相を揃える技術や、歪ませずに音圧を上げる技術が向上したが、未来を感じさせる音楽、私達を未来へ運んでくれる音楽を、私達はもはや聴くことはなくなった。(つまり、80年代以降に生まれた方々は、私がここで何を書いているのかよく判らないかもしれません。‥たとえば、ビートルズが初めて日本のラジオで放送されたとき、放送局に「ラジオから壊れたひどい音が出てる。放送事故だ」という苦情が殺到したそうです。そういう、本当に社会が震撼するような音楽、社会全体が変化してしまうような新しい音楽が、かつては存在したのです)
私はしばしば考えてきたし、これからも考えるかもしれない。
・私はアナログ機器がかもし出す曖昧な、微細な位相のずれを愛しているし、恒久的なノイズから浮き上がる音を愛している。例えばクラシックの電子音楽のCDで、同じ作曲家が70年代のものと最近MACで作ったものを混ぜて発表したものがあるが、作風がほぼ変化しないのに70年代の方が聴き応えがあるのは、その曲を曖昧な揺らぎと恒久的なノイズが下支えしているからである。コピー用紙は虚無だが、和紙はそれ自体永遠に飽きない質感を内包している。いわばその違いだ。
しかしこの趣味は古いだろうか。TVを見る限り、最近のJ-POPはカッチリ位相を揃えて極めてクリアに音を作っている。ここ数年の間に急速に流布したクリアさだ。
・メロディー。以前このブログにも書いたが、“メロディー”という言葉の意味が着実に変化している。最近も若い方と話していて思い知った。ロシア民謡、大正流行歌の強靭なメロディーを愛する私、21世紀の“メロディー”という概念をまだ体得できていない私は、過去の亡霊だろうか。
・花に見ごろがあるように、全ての文化には“盛り”の時期がある。50年代後半〜60年代前半の、保存状態のいいマイクは決して市場に出ない。同じものが作れないからだ。ハリウッドでは、今でもそういうマイクを大切に使っている。
シンセサイザーも、録音芸術全体も、知らないうちに最盛期を過ぎたのだろうか。それとも別の方角に進化していて、私は取り残されているのだろうか。
・最新作で改めて“録音芸術の凄み”を見せ付けた細野晴臣氏。しかし、恐ろしいことに、その成果は、40年代のマイクと、“セッションによる一発録り”にあった。自己の内界を録音媒体に一人注ぎ込み、「できました。」と人々にお渡しする時代は終わろうとしているのだろうか。
ここに二つの事実(と私には思えるもの)がある。
・私の知るありとあらゆる音楽と、音楽に関する技術は、最盛期を過ぎた。
・若い人と私の間に、何か決定的な聴こえ方の違いがあるが、それが何なのかいまだ判らずにいる。
多分、私は20世紀的人間なのだ。
ここで冒頭の“霊聴”に戻る。
「過去に戻るのは‥…」
ここで、さらに話を横にそらす。
日本の怪異の話は、多くが「カウンセリング的」である。
「悪に打ち勝つ」話は、実は西洋に比して少ない。
例えば、琵琶を鬼が盗む。
鬼のところに行く。特に剣で勇敢に戦うわけではない。
鬼の身の上を、じっと、ただ、じっと、聴いている。
聴いているうちに、鬼は琵琶を返してくれる。
もしも私が20世紀的な人間で、
20世紀に既に(私にとって)重要なものは出尽くしていて、
21世紀的なものは適応どころか欠片しか見えないのなら、
私がすることは、
20世紀のカウンセリングではなかろうか。
ロシア民謡も、大正流行歌も、アナログシンセによる内宇宙の顕現も、テクノも、セリー音楽も、音響系も、ジャズもパンクもヘビメタも、全部20世紀というひとかたまりにして、じっと、ただじっと、20世紀の身の上を聴くことではないだろうか。
あたらしい未来のために。
- [2007/09/29 01:17]
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嵐のあと

私は 人生で
孤独と 落胆以外の 何かを
抱きしめて みたかったのだけれど
- [2007/09/15 00:25]
- 写真詩 |
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保温・保冷マグカップのカスタマイズ

便利だが、情緒のかけらもない、保温保冷マグカップ。

弁当箱売り場に、お弁当を包む布売り場あり。
蒔絵風のデザインを購入。¥300。

適当なとこで、適当にハサミで切る。

どうだろう。多少はマシだろうか。
‥‥ダメ?
- [2007/09/13 18:43]
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機能と美意識、生活の情緒
情緒のかけらもないデザインだが、便利そうなので、
保温・保冷マグカップ
というものを買ってきた。
なるほど。
情緒のかけらもないが、なかなかに便利だ。
意外に思われるかもしれないが、
音楽家―音響など、音に関係する人々全般―は、
多くの場合、生活の情緒に無頓着であることが多い。
整理整頓やインテリアよりも、
“どこに座ったら何に手が届くか”
を中心に生活用品を配置してしまう。
無頓着といっても、音を邪魔するものがあれば、たとえそれが色であったとしても、徹底的に排除する。
かくして、彫刻家、画家、アニメーション関係者などが家に来ると、
「ぐわー。音屋の部屋だー」
と驚く部屋になる。
なんか機能性を重視した果てに、音楽関係者特有の部屋の雰囲気というものになるらしい。
当人に自覚はない。
色がうるさくなければそれでいい、
必要なものに手が届けばいい、と思ってるだけだ。
そんな私でも、保冷保温マグカップというのは、
なんだかずいぶん味気のないウツワだ、と思う。
が、なかなかに便利である。
そのうち慣れるのだろう。
こうしてまた一つ生活から情緒が失われる
保温・保冷マグカップ
というものを買ってきた。
なるほど。
情緒のかけらもないが、なかなかに便利だ。
意外に思われるかもしれないが、
音楽家―音響など、音に関係する人々全般―は、
多くの場合、生活の情緒に無頓着であることが多い。
整理整頓やインテリアよりも、
“どこに座ったら何に手が届くか”
を中心に生活用品を配置してしまう。
無頓着といっても、音を邪魔するものがあれば、たとえそれが色であったとしても、徹底的に排除する。
かくして、彫刻家、画家、アニメーション関係者などが家に来ると、
「ぐわー。音屋の部屋だー」
と驚く部屋になる。
なんか機能性を重視した果てに、音楽関係者特有の部屋の雰囲気というものになるらしい。
当人に自覚はない。
色がうるさくなければそれでいい、
必要なものに手が届けばいい、と思ってるだけだ。
そんな私でも、保冷保温マグカップというのは、
なんだかずいぶん味気のないウツワだ、と思う。
が、なかなかに便利である。
そのうち慣れるのだろう。
こうしてまた一つ生活から情緒が失われる
- [2007/09/07 22:54]
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