複雑なヒント 

今月冒頭に書いた、坐禅で観じた「自己の真っ黒などうしようもない塊り」について。
じつは小出しに、ちびちびとヒントを与えられ続けている。
いまだにシンクロニシティが錯綜しているのだ。

まず、数ヶ月にわたり長々と丁寧に読み進めていた、

「内面への旅」 ルドルフ・シュタイナー 筑摩書房

を、先週読み終えた。
収録されている最後の講演に、まさにそのことらしきことが書いてあった。
この講義によると、
『人間の内面は通常、無意識も含めて外界の鏡に過ぎないが、この鏡の裏側にはエーテル体が凄まじい破壊力をもって活動しており、この破壊のかまどの中で人間の通常の自我は形成、精練される』
と(私流には)要約できるので、
どうやら私が観じたものは、“普段人間が見ることのできないエーテル体内の自我の形成現場”、ということのような気がする。
この“日常自我の根”とでもいうようなものと通常の自我意識が繋がって外界に流出すると、自我肥大を起したり教祖人格になったりとんでもない悪人になったりするらしいので、じつはけっこう命からがらだったようだ。
ちなみに、「感覚印象の背後にいたるには、認識の中に愛が働いていなければなら」ず、「通常の自我は放棄されねばならない」そうだ。禅師が「時間をかけて消えていく」と仰っていたのはシュタイナーがここで言う通常自我~小我と同じだろうか~のことだろうか。
あんなに強固で根源的なものが「ほぐれて消えてく」んなら、そりゃ生涯かかっても当たり前か。てゆうか完全には無理なので、生涯かけて少しでもほぐしていこうとすること自体に意味があるということだろうか。
(無論上記には私見も混入していますのでご了承下さい)

で、これを読んで、ずうっと昔に読んだ本の一節を思い出した。
『このことを、道元は“破鏡”と言っています』
という感じの一文。
読んだ本は8割捨ててしまうので見つからないかも、と思いつつ本棚をひっくり返したら、出てきた。高橋巌先生がこのシュタイナーの講演を紹介している講演を、テープ起しした冊子である。シュタイナーの講演日が1921・9/23と一致しているので間違いない。

『千年紀末講演録|悪の働き・社会の未来』 高橋巌
関西ルドルフシュタイナー研究会出版部、1988初版。

店頭には並ばなかった本かもしれない。どこかのオイリュトミー会場のロビーにて買った記憶がある。
これまた要約すると、
『内面を深く掘り下げていくと、ユングが述べているように前世の記憶にも出会うことが出来るかもしれないが、いずれにせよ記憶であって、過去の体験を鏡のように映しているに過ぎない。神秘学では、この鏡をどうやって打ち破るか、と考える。それは禅宗でも同じようで、たとえば道元は鏡を破るという意味で“破鏡”と呼んでいる』。
(無論要約の際に私見が混じってしまいます。又、この本には『文責は、講演のテープを起こした関西ルドルフシュタイナー研究会出版部が全面的に負っています』とあり、高橋先生の全く同じ講義を先生ご自身が手を入れて、角川書店から『千年紀末の神秘学』というタイトルで出版されていますが、こちらでは禅のくだりが全て削除されています。)

道元といえば曹洞宗、曹洞宗といえば、わが禅師。

ところが、師のもとで坐禅―只管打坐―を始めて、ジョン・ケージの音楽がわかるようになり、コンサートぎらいの私が数年ぶりに、“偶然にも”数日後に聴きに行くのは、ケージの曲「龍安寺」の声明ヴァージョン。龍安寺は禅宗は禅宗でも臨済宗の系列。
師に「坐禅するようになったら、禅の経験があるケージって人の曲が解るようになって、その人に龍安寺って曲があって、いろんな楽器のヴァージョンがあるんだけど偶然声明版を演ることを知って聴きに行くんです」と言ってみたら、「ああ。声明ったら真言のがねぇ。ありゃぁいいもんだねぇ。」
帰ってチラシを良く見れば、“真言古典声明”も同時上演。てゆうかさらによくよくチラシを見たら、チラシのデザインが「機」「定の果て」「明け前双つ」「丸の為の音楽」のジャケットデザインをしてくださった井原靖章氏ではないか。どうなってんだ。いくら世間は狭いっつったって。

…などと書いているが、じつはあまりびっくりしていない。
シンクロニシティにいちいち驚かなくなってきた。
シンクロニシティには平常心で接するのが正解らしい。
べつにコンステレーション(シンクロニシティの意味)が読めるわけでもないし、
日々の心配事がなくなるわけでもない。

さぁ、日々の心配事だ。
Last.fmを聴きながら、さてどうやって自分を宣伝していったらいいか、と思い悩んでいたら、
「ryoanji」
がパソコンから鳴り出した。
コントラバス・ヴァージョンの龍安寺。
慄然として、しばし聴き入る。

スクロブル数は1。つまり今までに一人しか聴いていないことになっている。
理由は概ね了解された。
ダウンロード・フリーだったのだが、ファイルが壊れてるらしく、エラーでダウンロードできなかった。
しかも、アーティスト名がコントラバス奏者か誰かの名前になっていて、画像はケージの顔写真なのに、いくらあとから検索しても全くたどり着けない。一期一会だったのだ。

Last.fmのコンバス版龍安寺はライブ録音だったようで、
静かな拍手が鳴り出す中、システムエラーを起こして曲は終わった。

奥行き 

たとえば、ぼやっと聴いてるありふれた曲を、
ふと鍵盤でコードを確かめてみる。
途端に意味が判らなくなる。
CからAmに移行しているのではなく、
CからAmに転調しているのだと気付くだけでも、
何十分もかかる。
マイクの種類や位置、EQのポイント、シンセの機種まで、
その曲の“全て”を解析しようとしても、
まず無理である。
「この曲はどのような精神を礎に、何を目指して作られたか」も、
殆どの場合、理解や共有は極めて難しい。

「もしも本当に一枚の絵画を理解しようと思うなら、その一枚の画を見つめ続けて、疲れ果てて、椅子が必要になるまで見つめ続けなければならない」、
と言ったのはクレーだったろうか。忘れてしまった。

父の遺句集が仕上がって、読み始めて、3ヶ月ほど経った。
俳句の句集だ。ぼやっと読めば30分もかからない。
しかしひとたび、「しっかり読もう」と決意したなら、
驚くべき奥行きに出くわすことになる。
俳句には広辞苑にも載ってない漢字や単語が多用されるし、
ぼやっとイメージで読んでいたところを今一度調べると、
イメージと違っていたことが判ったりする。
ごく基本的な単語の意味の調査すら困難なのだ。
(たとえば“青嵐”。イメージで読み流せば読み流せてしまうが、調査すると、“繁茂した草木を揺り動かすやや強い南風。夏の季語”。驚くほど厳密である。)
父の俳句を読むためだけに電子辞書を買い、
父の句集をシャーペンで書き込みだらけにして、
まだまだ、判るどころか、“読んだ”とすら自信をもっては言えない状態である。

ほとんど全てのものには際限の無い奥行きがある。

ひとが生涯にわかることのできることの 少なさといったら。

教宗じゃねぇし 

禅師、退院。
鍼灸治療を受けながら、師の不在中に観じた自分の核心、
どうにもならない醜い塊りについて話してみた。

師、呵々と笑う。

以下、記憶を頼りに問答を再現。

「それがねぇ、坐ってっと消えてくのよ」
「え?あれが、消えるんですか?」
「うん。消えるの。」
「普段の、日常の意識とは全く違う、自分の核心、これこそが自分の本体、これこそが決して消えない自分の中心、と観じたんですが。」
「でしょ?
坐ってっと、いつかはそれに出会うんだわ。
それはそんなふうに醜い場合もあるし、
信じられないくらい美しい場合もあるし、
数年おきに交互に顕われたり、
つぎつぎに“これこそが自分の本体”ってのが入れ替わってく場合もある。
その“本体”がね、坐ってくうちに、ほぐれて、溶けて、なくなっていくんだよ。無常ってやつだね。
それはいきなりパァッとなくなる人もいるかもしれないし、
オレみたいに何十年も七転八倒せにゃならん場合もある。
つまり、オレはオレの宿題をこなさにゃいかん、
キミはキミの宿題をこなさにゃいかんのだ。
人によって違うんだわ。そこんとこが。
だからキミにあまりリクツ教えたりしないで、
ただ坐ってるわけだ。
そもそも(禅宗は)教宗じゃねぇわけだしね。

キミと話すのは楽しいよ。」

そう言われてなんとなく嬉しくなったが、さて。
こんど久々にコンサートなるものに食指が動き、
ジョン・ケージ作曲「龍安寺」
をスパイラルに聴きにいくのだが。
私はいったいどんな体験をするのだろう。
なんだか見当もつかなくなってきた。

ある種の ものは 


見られないから 咲くのです

坐禅に於ける無残な歩み 

何も感じない音楽、というのはある。
聴いた後に何も残らない音楽、というのもある。
しかし、聴いた後に、
「何も残らない」が永く残る音楽、
“無”が残り続ける音楽、

なのだということに、気付いた。


なんのことかというと、
坐禅をするようになってから、
ジョン・ケージ(John Cage)の音楽がわかるようになった。
いや、もちろん音符のシステムなどは、聴いたって判らない。
しかし、普通の(?)音楽と全く同じように、
思考や知識の補助を必要とせず、
魂と音が直接に繋がり、
聴きたいと心底願ったり、
心底聴いたりするようになったのだ。
――この人に似た音楽を作る人を私は知らない。

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禅師が入院することになり、その際、
師の留守中、禅堂の仏具を録音してもいいか伺い、
許可を得ていた。
坐禅と、録音をしに、一人禅堂に入ったのは先週だった。
文殊大士像に礼拝し、録音の旨口上し、
坐禅から入ったのだが、
だめだ。
全然だめだ。
録音することへのはやる気持ちで、
まるっきりどうにもならない。
ただ録音する、というだけで、
坐ってることすらまともに出来ない自分を見せられる思い。

早々に坐禅を切り上げ、仏具の録音に。
もう録音のことしか頭に無い。
鉦を鳴らすのに、ご近所の犬が吠える。吠え続ける。
「消えろ、消えろ、消えろ、消えろ」と、
心底願ってる自分に気付く。
「黙れ」、ではない。「消えろ」。
いますぐいなくなれ。
遠くに行くのでは時間がかかる、
殺すのでも生き埋めでもなんでもいいから、
今すぐ、今すぐ犬よ、黙れ。失せろ。消えてくれ。

どうにか一通り録音を終えて、再び坐禅。
やはりうまく行かない。
様々な思いが去来する。
妄念を出るに任せることにする。

考えるに、
同じ事を、かつて実家で飼っていた犬にも思っていた。
14年生きていてくれたが、
吠えるたびに、拳で殴りつけたものだった。
こと音と音楽に関して、
自分がひどく不寛容な人間だという自覚はあったのだが、
禅堂で坐禅していて思い至ったのは、
この圧倒的な不寛容さが、
音楽に関してのものではなく、
それどころか、この圧倒的な不寛容さこそが、
自分の魂の核心なのだということ。
自分の魂の中心に、
何か真っ黒などうにもならない塊りがあって、
「黙れ、消えろ、失せろ、いなくなれ」と
凝り固まっていること。
この塊りが、魂の欠点なのではなく、
魂の核なのだということ。
日々の暮らしが成り立っているのは、
いわば尊敬してない人にも普通に尊敬語を使うように、
魂の核心に触れずにいるからだ、ということ。
どれほど孤独に苦しんでいようと、
じつは魂の本体は「失せろ」と叫んでいること。

「私は、生涯、決して悟ることはできない。」

と悟った。(ような気がした。)

なんだかタルコフスキー「ストーカー」のテーマのようだ、と書いてる今思ったが、それにしても私が禅堂で知覚した「真っ黒などうにもならない塊り」はなんだったのだろう。人間の無意識界の醜さは心理学をかじればよく知るところだが、人間の抑圧された低次の無意識というより、私は確かに「私の存在の中心、私の生命の核心、これこそが私の本体」と観じたのだった。

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今日、再び一人禅堂で坐ってきたが、

「そもそもお前には、ここに坐ってる資格がない。」

という“理解のようなもの”に満たされた。
なぜそのような理解に至ったのか、思い出せない。
思い出せないので、
まだ坐禅はやめない。