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 2011年12月 

人生等の散乱 

更新が滞りました。すいません。
忙しかったり、人生が散乱したり、
考えや言葉やアウトプットが散乱したりしておりました。

こうなるまい、と心がけていたのですが、
やはり大半の皆様のように、
人生や考えや言葉やアウトプットは、
昨今、散乱するもののようです。

お名前は一応控えますが、
数年前、とある敬愛するアーティストがブログを始め、
公式サイトの運営も始まり、
公式サイトとブログ双方にRSSフィードが提供されていて、
それを登録して、さあもう安心、この人の動向はこれで漏らさずキャッチできる、
そう思っていて、
なんだか最近ぜんぜん知らせを聞かないな、
最近この方はどうなさっているんだろう、
と思っていたら、
その方の公式サイトは放置され、
別の場所に別のサイトが設立され、
公式ブログも数ヶ月完全に放置された末に消滅し、
そのアナウンスもなかった、
という経験があります。

過日その方のお名前を検索したら、
沢山の知らないインタビューが現れ、
読んでみると、
「読んでいる人の反応を見ていたら、
急にブログに興味がなくなった。」
というような、やや不思議なことが書かれていました。

ご当人からすれば、
何らかの心の動きでブログに興味がなくなることは仕方ないとしても、
更新したくてもできない事情(サーバーの問題等)がないのに、
公式サイトをアナウンスなしに放置しつつ別のサイトを設立するのは、
正直、あまりよくないのではないかと思っております。

そういうことが、じつは、非常に多いと感じております。
発信している側からすれば、
同じ量をアウトプットしている。
でも、アウトプットの行き先が、変わっている。
受け手はその変化を、キャッチできない。
発信側が、移転についての発信をしない。
そのようなケースを、幾人か体験しております。
メジャー、インディー、零細、音楽以外など、
規模やジャンルに関係がなく、そういうことは生じるようです。
そういう時代なのでしょう。
舟沢は、「行き先」が変化しても、
舟沢に興味を持って下さる方々がなるべく困らないよう、
努めていく所存です。

以上を簡単に要約すると、
舟沢、今のところ、生きてます。
このサイトも、今のところ、放置されていません。

以上は、アウトプットの行き先の変化の話ですが、
以下はアウトプットの多様化について。
これについてはどのように振舞うべきか。
正直、分かりかねているところであります。
“非公式”に、ツイッターやら、SNSやらをしてしまうのであります。
どうしても、そこにアウトプットが分散してしまう。
そこに書く時間やエネルギーをとられてしまうし、
「いかん、これは公式じゃないのだ」と、
書くのを我慢することにもエネルギーが要る。

単純に考えても、
言葉のエネルギーや書くのに使う時間は、
アウトプットが5ヶ所あれば5分の1、
10ヶ所あれば10分の1になるわけで、
それは何とかしたいと思うところでもあります。
それでは注力する場所を絞ればいいのではないか、
と思っても、
注力していた場所が、場所の側の都合で変化する場合もありますから、
やはり一人で“分身”していくのはやむをえないと思うところもあります。
myspaceの設立当初から数年、舟沢は夢の中でもmyspaceやってるくらいあの場所にのめり込みましたが、あのSNSはサービス提供側の仕様変更により、夢の中でもやっていたデザインのカスタマイズもすっかり雲散霧消し、殆どSNSとしては機能しない仕様になってしまいました)
それに、非公式だから書けるようなことも存在しています。
(人生や生活に生じる果てしない愚痴などが、舟沢の脳内には溢れかえっているのです。)
せめて公式ツイッターでもこのブログに貼り付けられれば、と考慮中ですが、
ゆくゆくは公式化しようと思っていたアカウントで、気楽なこと――今にして思えば不注意なこと――を書いて炎上寸前の目に遭ったりもしましたし、なかなかに難しいです。

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アウトプットの散乱というか、多様化について、
どのように振舞うのか、人によって様々なようであります。
多様化し、分身し、それを苦慮する方もあれば、
苦慮せず散乱にまかせておられる方もおられるようです。

そうなるとどうなるかというと、
「受け手」もまた、多様化・多チャンネル化を受けて、混乱することになります。

あたりまえですが、これを書いている舟沢も、
「受け手」の一人であります。

1~2週間ほど前のことですが、
舟沢、食事を作ろうとしている最中に、ふとPCを見たら、
突然、ツイッター経由で、
「今から○○(敬愛する芸術家)が、今の時代についてustreamで語る」
ということを知ります。
ユーストリーム(動画の生中継)ですから、録画もせず、そのまま、観ます。
内容的には20世紀の芸術の変遷から、2050頃までを俯瞰して見るような、非常に興味深く、また自分の血肉になるほど考察―消化吸収するには非常に時間のかかる内容で、引き込まれて拝聴しましたし、内容はいまだに舟沢の中で生き続けています。
それが終わって、考える間もなく、
ある種のTVゲームに関する動画配信のRSSが届きます。
舟沢はとあるTVゲーム(それほど有名ではないもの)が好きで、
世にあまたあるゲームの中でも、そのゲームに関する動画だけはなるべく見るようにしているのです。
それを見て、これはたまらない、食事を摂らなければ、と見るのを中断して食事を摂り、シャワーを浴びて戻ってくると、HD録画機が赤く光っています。
番組表をざっと見て、数あるTV番組でも、「こういう内容の番組なら、いくらインプットの消化が悪い心身であっても、見るようにしないとなぁ」
という内容の番組が、録画されているのです。
それを、早送りしながら、あまり味わわずに見ます。
というわけで、「自分はインプットは少なくていいというか、あまり沢山は消化できない心身だけれど、最低でもこのくらいはインプットしとかないと」というものをインプットしていたら、あっという間に6時間が経ってしまいました。
そしてあとには、「これだけは聞いておきたいポッドキャスト」や、「このぐらいは読んでおかなくちゃ」という本が残っています。

どこかでドラスティックにインプットの量を減らすべきではないのか、と考えるのですが、世のアウトプットが多様化しているので、なかなか減らせません。
RSSや動画配信やHD録画が生じる前でしたら、
「この専門的な月刊誌を読んでおけば必要な知識は身につけておける」とか、
「この番組を週30分見ればあとはいいだろう」とか、
そういう発想で良かったのですが、
実際に興味深くて、以前ならば摂取することができなかったような珍しくて貴重な、そして専門的で“見ておかないことはよくないことかもしれない”というような情報が、いくらでも目の前に届いてしまいます。
そして、歳をとると、「専門外のこと」にも多くの時間とエネルギーを割かなければならなくなります。
実際、専門であろうがなかろうが、「わからないはずのないことが、わからない」という経験は、むしろ増えてきています。
みなさん、情報に対して、どう向き合っているのでしょう。
時間の使い方というのは、それぞれのご事情もあって非常に様々でしょうけれど、人々がどのように時間を使っているのか、しばしば、舟沢は考え込んでしまいます。

舟沢、とある有名なTVゲームを、“あそんでいない”のですが、
先日、そのことで、「いくらなんでも、あれを遊ばないのはよくないのではないか」と、若いゲームディレクターさんに声をかけられました。
「あのゲームを、普通の人々は、どのくらいの時間遊んでいるのでしょうか」と訊くと、
「300時間くらいでしょうか」
という答えが返ってきました。
舟沢にはできそうにありません。
舟沢、舞踏公演は結構拝見するほうだ、
少なくとも自分としては、時間の許す限り、消化吸収できるギリギリくらいは拝見するようにしている、
そう思っていたのですが、
最近になってわかってきたのですが、
詳しい方や、舞踏家の方々の中には、
舞踏公演を週に何本も、つまりは年間100本以上、
文字通り劇場に“通って”観ている方も多いようです。
ご自分の作品を創りながらその合間に、です。
舟沢にはできそうにありません。
映画に詳しい方は毎日何枚もDVDを観ていますし、
音楽に詳しい方のメモリーの中には数十万曲の音楽が入っています。
皆さん、こういう時代に、いつ、どうやって、ものごとを掘り下げているのでしょうか??
厭味だと思われたくないのですが、舟沢、わかりません。
舟沢は、先日「このライブは聴きに行ったほうがいいのではないか?行くべきなのではないか?」というライブ・コンサートや講演などが、同じ日のほぼ同じ時刻に3ヶ所で行なわれ、結局どこにも行かずに、禅堂で坐禅することにした日がありました。
見聞の拡張や情報摂取や人脈作りといった見地からは間違っていても、舟沢には坐禅のほうが、そのとき重要に思えたのです。
その行為が正しいかどうか、わかりません。

わかっているのは、
舟沢は、どうやら情報の消化吸収が遅めらしく、
それほど多くの知識を身につけることはできないらしいこと。
これは、身につけてしまった知識を使い捨てにできないということでもありますので、
変化の速い時代には不利な体質のようですし、
多様化への適応もなかなか難しいようです。
シュタイナー/ヒポクラテスの用語で言うと、
多血質(空気エレメント)の要素が、舟沢は非常に少ないらしい。
(舟沢の憂鬱質の多さは隠すまでもないことですが、この多血質の少なさが、しばしば舟沢の生活を特徴つけているようです。そして、シュタイナーが言う憂鬱質・多血質・胆汁質・粘液質は、矯正することができないことが知られています。)

大きな菊の花を咲かせるために、たくさんの菊のつぼみを切らなければならないように、
舟沢の場合、インプットも、アウトプットも、どこかで切らなければならないのかもしれません。
切る副作用も、切らない副作用もあります。
要は、さじ加減ということになるのでしょうが、
そのさじ加減を決めてくれる人はもちろんいませんし、
自力で決めるには情報が足りません。
そして、いくら情報を摂取しても判断するには足りませんし、
そもそも情報摂取の過多が問題になっているのです。

ここ数ヶ月、まとめ上げたい文章が、
いくつか脳内に散乱しています。
舟沢はそれらを文章化すべきなのかもしれません。
あるいは、そんなことはやめて、
もっと情報摂取に努めて、
今という時代について考えるべきなのかもしれません。
いや、それもやめて、
PCを買い換えて、新しいソフトを買い込むべきなのかもしれません。
いや、それもやめて、
曲作りだけをするべきなのかもしれません。
いや、それ以前に、
機材のメンテナンスにいそしむべきなのかもしれませんし、
それもやめて、
手軽に音楽を作れるような機材と体に自己改造するよう努めるべきかもしれませんし、
それ以外に、もっともっと多様化する自分の興味を拡げていくべきなのかもしれませんし、
音楽や言葉以外に、降りかかる人生の雑多な課題に、押し潰される日が来るのかもしれません。

自己同一性の破壊と多様化こそが、
時代の要請だという話は、よく耳にします。
しかし、どこかで、この多様な時代を生きるために、
この散乱の整頓も、しなければならない気がするのです。