はぐれもん 

座禅。
座るたびに発見がある。
今のところ、
「座禅とは、外界、内界の境界を開いてコンプレックス(情動的複合体)を自我に流入させ、それにうろたえない内的平静を形成する」修行、
と捉えているが、
われながらいかにも初心者らしいし、
実際に体験することとも随分違う。
つまり、未経験のことを判断してもしょうがない。

最初の頃は、いくら考えても根源のわからない、
全く意味不明な幻覚があった。
「そういうのを妄想ってゆうの。禅ではね。」
だそうだ。
前回は、自分は「ろうそく」だ、という実感に満たされた。
「あとどれぐらい蝋は残っているだろう?」とか、
「今までどれぐらい燃えてきたのだろう?」とか、
そういう、「人生を蝋燭に例える」思考が、
一切通用しない。
ただただ、「おれ、ろうそくだ。」という実感だけがあり、
それ以上にもそれ以下にもならない。
「あ。そうそう。人間ってそうろくみたいになってんの。
アタマから気が出てて、血(けつ)が下へ行っててね。」
だそうだ。

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以前書いたが、私は、大抵の音楽シーンに、所属したくても所属できない。そんなに特殊なことをやってるとは思えないのだが、私に親近感を覚えてくれる音楽家は殆どいない。
(ここには書かないが、私は最近、職業音楽においても、“シーン”という考えからはぶっ飛んだところで評価されていることを知る)
考えにしてもそうで、私の敬愛する画家には統一性がないなぁ、と思ってたらその画家達の共通項を論じた本があるそうだが、絶版。オークション出品待ちだが、無茶苦茶高値で取引されてるらしい。
つまり油絵に関しては、私に近い思想・感性をお持ちの方が僅かながらいて、再販する(商売になる)ほどじゃないけど熱心であるらしい。(そういう人が私の音楽を好いてくださるかどうか全く未知数だし、探しようもないし、宣伝もしようがないけれど。)
禅にしてもそう。先日書いた、魂を揺さぶる一枚の掛軸と一体の木像は、それほど美術価値が認められていないらしい。そして、鍼灸やカイロプラクティックを生業とする禅僧に、改築したアパートの一室で、座禅を教わっている。
そんなこんなで、私ゃ一体なんなんだ、といぶかしく思っている。

今日の座禅で。
「はぐれもん」
という言葉が浮かんだ。
どこへ行ってもはぐれもん。
どうあがいたってはぐれもん。
おまえはどこまでもはぐれもん。
それがおまえ。

なんかすごく納得したのだけれど、
それを師に言ったら、それを尊重してくれつつも、
「アタマに浮かぶのはねぇ。だいたい妄想だからねぇ。
ふつう“わかる”時はもっと下のほうに理解がくるのよ」
だそうだ。
あと、敬愛する山頭火みたいにひたすら歩くのとは違う、
呼吸数と歩幅が決まってる「徒歩禅」も習ってるんだが、
その呼吸のときに、散々練習した「自立訓練」「丹田呼吸」のヴァリエーションを取り入れてやってみたんだが、全然「効いてる」感じがしない。
「わかるまで随分かかったんだけどねー。
禅って、丹田とかチャクラとかと違うのよー。」
だそうだ。
この先はディープ過ぎて記述省略。
ただ一つだけ紹介。
「これから先も、壁の向こうが透けて見えるとか、いろーんなことを経験していくと思うけど、全部捕われないことね。捕らわれちゃうと、ばぁーっ、と“我”が果てしなくおっきくなっちゃって収拾がつかなくなるからね。」
だそうだ。
“マナ人格”のことだろう。

「この歳になって師を得たことが嬉しいです。
それもはぐれもんにふさわしくはぐれもんの師を得て」と言ったら、
呵呵大笑なさっていた。

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