伽藍 

詳細はごっそり省くが、
奇妙な“導き”があって、
夏ごろから集中的に、
東京国立博物館に通っていた。
あそこは凄い。
一日では見きれないし、
しょっちゅう常設展示をマイナーチェンジする。
半永久的に飽きない。

通っていたら、
私の中に、ぼやりと地図が生成され始めた。
魂の立体地図。
縦軸が時間、横軸が地理。
同じ時代の、タイの重箱と日本の重箱は、
装飾も形もほとんど見分けがつかない。
飛鳥の出土品と百済の出土品の見分けは私にはとてもできない。
どうみてもちょっとおしゃれなガラス茶碗、
汚れとひびがなかったら、
近所のデパートで売ってても全然おかしくない茶碗が、
古代のイランから出土してたりする。

アジアなのだ。
イラン、ペルシャ辺りから、タイ、シンガポールの先まで、
アジアなのだ。
私はアジアという密林の一本の樹、
アジアという巨大なの伽藍の一員。

じわじわと驚き始めているのは、
イランあたりまで“地続きの文化圏”であること。
ロシアには明確に壁があって、アジアではないこと。
そして、美術や日用品で見る文化ではアジアは一つの巨大な伽藍だけれども、
私にとって殆ど全てのアジア音楽は“異文化”であること。

美術で見ると、カンボジアの密林と日本の山奥とペルシャの砂漠は、
古来より遠い親戚であることが判る。

しかし音楽は、ここ2~300年の間に、
ほぼ完全に地球全体が西洋化されてしまった。
伝統音楽の保持に努める人でもない限り、
私達は音楽に関して、
北陸に芽を出した椰子の樹のようなものらしい。

まだまだ解らないことが沢山ある。
myspaceを始めると、
いないと思っていた私の“音楽の親戚”が、
地球上に幾人か生息している事が判る。
不思議なことに、これにもある程度地理が存在する。
その散在する生息地域のなかでもとりわけ、
カナダの東海岸から、ノルウェー、スウェーデンの“極北大西洋”の人々は注目に値する。
さらに不思議なのは、基本的に、
彼らの側は私を近親者と思っていないらしいことである。
中には決して私を受け入れない、断固無視する人もいる。
他の生息地域~東ヨーロッパや、アメリカの太平洋側~などでは、
こういう“力強い無視”には出くわさない。

私の知らない何か。
私の気付かない何か。
私が勘違いしている何か。

私は、電車の中で、隣の人が何を考えているのすら、
全く理解することができない。

それでも私は、
アジアの伽藍に住んでいて、
欧米音楽に生まれ育って、
ポストモダンを生きる、
グローバルな現代人なのだ。

結局は、私は私の音楽を掘っていくしかないのだけれど、
まだここ数ヶ月の経験を消化できていない。

とりあえず、本棚に飾ってある額縁をマンダラに戻した。
私は、この中心の無い伽藍に適応しなければならないのだ。

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