坐禅に於ける無残な歩み 

何も感じない音楽、というのはある。
聴いた後に何も残らない音楽、というのもある。
しかし、聴いた後に、
「何も残らない」が永く残る音楽、
“無”が残り続ける音楽、

なのだということに、気付いた。


なんのことかというと、
坐禅をするようになってから、
ジョン・ケージ(John Cage)の音楽がわかるようになった。
いや、もちろん音符のシステムなどは、聴いたって判らない。
しかし、普通の(?)音楽と全く同じように、
思考や知識の補助を必要とせず、
魂と音が直接に繋がり、
聴きたいと心底願ったり、
心底聴いたりするようになったのだ。
――この人に似た音楽を作る人を私は知らない。

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禅師が入院することになり、その際、
師の留守中、禅堂の仏具を録音してもいいか伺い、
許可を得ていた。
坐禅と、録音をしに、一人禅堂に入ったのは先週だった。
文殊大士像に礼拝し、録音の旨口上し、
坐禅から入ったのだが、
だめだ。
全然だめだ。
録音することへのはやる気持ちで、
まるっきりどうにもならない。
ただ録音する、というだけで、
坐ってることすらまともに出来ない自分を見せられる思い。

早々に坐禅を切り上げ、仏具の録音に。
もう録音のことしか頭に無い。
鉦を鳴らすのに、ご近所の犬が吠える。吠え続ける。
「消えろ、消えろ、消えろ、消えろ」と、
心底願ってる自分に気付く。
「黙れ」、ではない。「消えろ」。
いますぐいなくなれ。
遠くに行くのでは時間がかかる、
殺すのでも生き埋めでもなんでもいいから、
今すぐ、今すぐ犬よ、黙れ。失せろ。消えてくれ。

どうにか一通り録音を終えて、再び坐禅。
やはりうまく行かない。
様々な思いが去来する。
妄念を出るに任せることにする。

考えるに、
同じ事を、かつて実家で飼っていた犬にも思っていた。
14年生きていてくれたが、
吠えるたびに、拳で殴りつけたものだった。
こと音と音楽に関して、
自分がひどく不寛容な人間だという自覚はあったのだが、
禅堂で坐禅していて思い至ったのは、
この圧倒的な不寛容さが、
音楽に関してのものではなく、
それどころか、この圧倒的な不寛容さこそが、
自分の魂の核心なのだということ。
自分の魂の中心に、
何か真っ黒などうにもならない塊りがあって、
「黙れ、消えろ、失せろ、いなくなれ」と
凝り固まっていること。
この塊りが、魂の欠点なのではなく、
魂の核なのだということ。
日々の暮らしが成り立っているのは、
いわば尊敬してない人にも普通に尊敬語を使うように、
魂の核心に触れずにいるからだ、ということ。
どれほど孤独に苦しんでいようと、
じつは魂の本体は「失せろ」と叫んでいること。

「私は、生涯、決して悟ることはできない。」

と悟った。(ような気がした。)

なんだかタルコフスキー「ストーカー」のテーマのようだ、と書いてる今思ったが、それにしても私が禅堂で知覚した「真っ黒などうにもならない塊り」はなんだったのだろう。人間の無意識界の醜さは心理学をかじればよく知るところだが、人間の抑圧された低次の無意識というより、私は確かに「私の存在の中心、私の生命の核心、これこそが私の本体」と観じたのだった。

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今日、再び一人禅堂で坐ってきたが、

「そもそもお前には、ここに坐ってる資格がない。」

という“理解のようなもの”に満たされた。
なぜそのような理解に至ったのか、思い出せない。
思い出せないので、
まだ坐禅はやめない。

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