深度 

半年近く父の遺句集を読み続けている。
俳句には広辞苑にも出てない言葉や、
漢和辞典にも載ってない漢字が多用される。
無論ネットでは判らない。
漢字が外字にすらないので検索できない。
「俳句歳時記入り電子辞書」を買ってきて、調べながら読む。
読む。
読む。

そうやって読み続けると、
季語ひとつの中にすら豊穣なインスピレーションの源泉があることに気付く。
単語が息をしている。
そこにたどり着けば、そこはもう芸術の水脈である。
汲み上げるのに充分な時間と体力があれば、音楽も作れる。

みんな、圧倒的に深度が足りないのだ。

100冊本を読むより、1冊を100回読んだほうがいい。

しかしそれでは、圧倒的な情報不足を生んでしまう。

たとえば、自由な時間が10時間できたとする。

10時間ひたすらシンセに向かうのか、
10時間ひたすらホームページの手入れをするのか、
10時間ひたすら波形プロセッシングを試し続けるのか、
10時間ひたすら和声を学ぶのか、
10時間ひたすらエフェクターのマニュアルを読み込むのか、
10時間ひたすら1枚のCDを聴き続けるのか、
10時間ひたすらあらゆる国のヒット曲を聴き続けるのか、
10時間を使って東京にすっ飛んでお店に挨拶に回るのか。

最晩年の河合隼雄先生は、鬱について語るとき、しばしば
「人生をクリエイトする」
ということを口になさっていた。
生きる、という創造。
しかし、一体クリエイトするとはどういうことなのか。
私は今も尚、自由に耐えることが出来ずにいるのではないだろうか。
曲作りですら、私は“選択の余地のない地点”にまでいちいち降り立たねばならない。これは自由と言えるのか否か。
選択の余地の多さに、私はしばしば途方に暮れる。
時間は限られているのだ。

全ての努力は不自然である。
何もかもがありのままでいいのであればはじめから何もしなくていいのと一緒だ。(禅ではそういう“自然”から“怠惰”を導き出す考えは、“無事禅”と呼ばれる邪道らしい)
しかし、全ての不自然は努力なのだろうか。あらゆる不自然は何かよきものにたどり着くのだろうか。
そこがわからない。

禅といえば、わが禅師がいま、ご自分が30年の坐禅で識ったことのうち、文章化が可能なところを文章にしたいと望まれ、日々言葉にしようと格闘しておられる。どうやら坐することと、腰椎、胸椎と、心のありようについて「どこにも書いてないことに気付いた」のだそうで、それを世に知らせたい、とお望みのご様子なのだ。 そのうち師の鍼灸院のホームページにアップロードされることとなろう。
30年間坐って、得た認識。

そういえば先日書いた「音の内外と東西」、
音楽家の皆様に喜んでいただけることを期待し、
神秘学者の皆様の反発を懸念していたのだが、
神秘学者の方々には望外に評判が良く、
音楽家の皆様は見事にノーリアクションである。
予想していなかった。わからないものだ。
シュタイナーは「認識に限界を設ける必要はない」と書いた。
しかし無知を知に変えるどころか、
年々歳々無知に気付いてゆくばかりである。
しかも常識は日々益々大規模に更新され、
「知ってて当然」のことを知っとくためだけでも、一日が24時間では足りない。

何かを知るには深度が必要だ。
深度を得るには周囲の遮断が必要だ。
しかしそれでは、社会からまたたく間に取り残されてしまう。
別に知りたくもないことを来る日も来る日も山のように憶え続けないと、音楽家としても社会人としても信用を失いかねない。そういう時代。

この矛盾はすぐにでも解決されねばならない。
しかし、そう簡単に解決できるわけがない。

人生はあまりにも短い。
人生はあまりにも長い。

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