致命的一体感 

N教のA・ワイダの特集を見て、考え込んでしまった。
彼は長い映画人生を、ポーランド人として、
ポーランド民衆との一体感を支えに生きていた。

たとえば、「灰とダイヤモンド」のラストシーン。
監督はあのシーンについて、
検閲官達は「ゲリラが無残に死んだ」と思い、
民衆は「党は将来のある若者をゴミ捨て場で殺した」と思うだろうと、
完全に“読んで”撮ったのだそうだ。

いつも「ありがとう」と言われて生きてきたそうだ。
道端で見知らぬ人に。
「あの映画をありがとう。あのとき何があったのか知ることができた」
「あのシーンを作ってくれてありがとう。あの街の本当の姿を伝えてくれて」
圧倒的な連帯感。

私は「耳のいい映画監督」を2人しか知らなくて、その一人がワイダ監督なのだが、音はおろか、映像について語ったインタビューすら、今回もとうとうなかった。
ただひたすら、検閲との攻防と、民衆との一体感。

去年あたりN教で観たが、とある高名な日本の映画監督は、若い頃やくざ映画の助監督をやっていて、学生運動が盛んだった当時映画館へ行くと、いよいよ主人公が敵対する組に殴りこみをかけるぞ、というときに、映画館内のあちこちから当時の学生運動特有の口調で「よーし!」「異議なし!」と掛け声が上がり、それを聞いて体が震えるほどの感動を覚え、自分の仕事の意味を体感し、その時の圧倒的な一体感が今でも自分の映画作りの礎になっている、と語っていた。

幸せな人たちだ。

一体感も連帯意識もなにもなく、
たった一人の人間として、
内的衝動も、外的義務もなしに何かを作るということが、
一体どういうことなのか、
彼らには理解できまい。
こう言ってよければ、
彼らは真の孤独を知らないのだ。
言い換えれば彼らは、
生涯“真の孤独”にたどり着かなくて済むほどの一体感を内面に蓄積しているのだ。

形相(けいそう)として、彼らの映像、音、脚本は偉大なものであるし、学ぶものも多い。
しかし内実を学ぶことはできないようだ。
それは私(達)の仕事。先人はどうやらいない。

僅かなヒントを遺した人々はいないわけではない。
鴨長明、リルケ、晩年のバッハ、狂う直前のニーチェ…
…しかしこういった偉大なる人々と、現代を生きる私(達)との間には、ある決定的に違う事情がある。
その事情について、ここに記する時間も度胸も能力も、今の私にはない。

コメント

昔、ビートルズの曲を聴いて、ある若者が『これは僕のための曲です?』ってジョンの家に押しかけた映像をみたことがあります。返答はこうでした、『これは僕がヨーコや家族を思って書いたものだ』『君のためじゃない』

私は音楽家に接している自分が、押しかけたその彼のようであるかもしれないと自覚するしか、ないんだろう、と思います。

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