櫻井郁也「ランズエンド」 感想 

櫻井郁也 ダンスソロ
「ランズエンド」
2008年11月14日(金)20:00、11月15日(土)16:00

その感想文。
私は批評家ではないし、
舞踏を批評する能力もないと思っている。
あくまでも、どこまでも、感想文。

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私が観たのは初日。満員。
元々舞踏はよく観に行くのだけれど、
ここのところ立て続けに観ていて、それでふと思ったのだけれど、
櫻井郁也氏の公演は、他の舞踏家/舞踏団さん達とずいぶん客層が違う。
「あ、よく客席で見かける人だ」って人たちも殆ど見かけないし、
なんというか、観客の集中の“種類”が違う。

なぜだろう。

当日配られたパンフレットにはいくつかのシーンに分けられている旨書かれていたが、どこからが場面転換なのかを判ずるのは困難。いくつか「ここが切れ目かな」と思うところもあったが、あとでパンフレットと照らし合わせるとパンフに書かれているシーンのほうが数が多かった。

櫻井氏の難解にして複雑なブログ。製作過程の未整理の思考の断片。
その最終形/完成形とおぼしき詩篇のような言葉がパンフに載っている。
それらを総合するに、今回は「身体から聴こえてくる音」「内と外」という二つのキーワードが特に重要らしい、と勝手にアタリを付けて心の準備。暗転。公演スタート。

ゆっくり灯りが入ったとき、簡素なバックの一直線が、巨大な十字架に見える。
ほどなくして、床の直線が鏡になっており、バックの直線の一部がそれに映り込んだせいで、私が座っていた角度からは楔のように見えているのだと判明。
しかし、縦線はともかく、横線はなぜ見えたのだろう。
あれはほんとうに十字架ではなかったのだろうか。

櫻井氏入場。踊りスタート。
いきなり音の洪水で驚く。
「身体から聴こえてくる音」というから、公演全編無音かと思ってた。
櫻井公演で音の洪水を聴くのは久しぶりな気がする。
しかし、機材をヴァージョンアップしたのか、音の分離が非常に良い。
分離が良いということは、音を大量に混ぜてもカオスにならないということ。
以前何度か聴いた櫻井公演の音の洪水は飽和した大音量カオスだったので、好みとしては分かれるところ。
とりあえず、音質が良くなったので、舟沢がポケットに常備している耳栓を出さなくても聴くことができた。音の苦痛を感じずに公演に集中。(低音質を大音量にすると耳が痛いものです。高音質でも度を越すと鼓膜で歪んで痛みます。)

じっと見る。
見る。
見る。
見ていくうちに、「内と外」といった空間的なことよりも、時間的な印象が強くなっていく。
櫻井氏が長年修め、舟沢も少しはかじっているR・シュタイナーの、
「現在の宇宙よりも3つ前の宇宙で、我々人類は、現在の宇宙の“熱”と辛うじて比較しうる“肉体”だけの存在であった。生命も、魂もまだ持ってはいなかった」
というような著述がありありと浮かんでくる。
人間の時間、というより、肉体の時間、というより身体の時間、というより、人体の時間。
現在の人体が成立するまでの時間。
よくとてつもないものを「天文学的な」と表現するが、
天文学が扱うよりもさらに巨大な時間を感じる。
それでいて仰々しさも感じさせず、集中した踊りは続く。
芸術家、とりわけ音楽家が行う時間の空間化や、空間の時間化とは別種の体験。

中盤、急激に照明が明るくなる。
ここで説明不能なものを見る。
空間の変容の一種。
かつて彼の「虚体ソナタ」という作品で感じたものと同じ。
似た体験が他にない。これが二度目の目撃。
「虚体ソナタ」の時と違うのは、あの時は会場全体の空間が変容したが、今回はぴったり舞台の空間内だけが変容していること。
さらにただならぬことが起きる。
一瞬あれ?消えたか?と思うが、注意して見ると、その「変容空間」が舞台上方に退いている(!)
このあたりで櫻井氏は寝そべり、舞台の隅に敷き詰められた羽毛を身体に付着させ始める。
そして羽毛を身体に付けた踊り~動きが激しさを増すにつれ、上方の「変容空間」が櫻井氏の居ない場所を見はからって触手のように部分的に、タイミングよく降りてくる(!!)
どうも私には、あの「変容空間」が、意識を持って行動しているとしか思えない。
櫻井氏が舞台全体を使って踊る前に、あらかじめ空間のほうがそれを判っているかのように退く。踊りで使わない場所を見はからって空間がタイミングよく降りてくる。
何なんだこりゃ。
櫻井氏は空間の変容場所を自在に操れるようになったのか?
それとも別の、空間が変容する何かが舞台に参加してたのか?

終盤に向かって、「時間的」要素を強く感じていた舞台が、
「空間的要素」を帯びてくる。
しかし時間的要素は消えない。
なんだか、私には舞台が遠い未来の空間に見えてくる。

この未来の空間(みたいに私には見える空間)が、
あるなんとも言えない個人的記憶と重なる。
myspaceでかつて“フレンド”だった、アメリカ人女性。
あまりにも“非芸術的”な女医。
芸術が好きなのか、芸術家にコンプレックスがあるのか、なんだかわからないけど想像を絶した“非芸術的”な写真をアーティストのmyspaceに(おそらくは無自覚に)貼りまくり、たまりかねて私はフレンドを抹消した。他の多くの欧米の芸術家もそうしたらしい。
その“非芸術性”たるや、そんじょそこらの日常ブログの写メの比ではない。
そんな中でも、多少なりとも“芸術性”を感じる画像がひとつあった。
フラッシュか、GIFアニメだと思う。
大量の十字架に雨らしきものが降っている画像
「あなたがたの犠牲に敬意を表します」という英語の文章がセットになっている。
つまり、「イラク戦争で死んだ米兵のみなさん、世界平和のために尊い犠牲をありがとう」という画像。

政治云々や芸術的クオリティはもちろん全然関係なしに、このとき見た大量の十字架のCG画像と、終盤の櫻井氏の未来の空間(のように私には見える)踊りとが、どこかで通じているように見えたのだ。

そういえば櫻井郁也氏は美術の櫻井恵美子氏らと共に「十字舎房」を名乗っているが、十字架のイメージを全体的に強く感じた公演は今回が初めてのような気がする。

やがて照明が青くなる。時間も、空間も、記憶も、変容や緊張を解き始める。
時空が落ち着いたところで、暗転。
明転。ニコリと笑って、お辞儀。拍手。

楽屋に寄ったが、人が入れかわり立ちかわりで大変そうなので、手だけ振って帰ってきた。

後で、律儀に「話せなくてすまん」的なメールをくれた。
そこで思い切って、中盤の「意識を持った変容空間」を中心に、色々公演内容について訊いてみた。
結果、私はそれ程ひどい誤解はしていないらしい。
ただ、私は公演を部分的に理解したらしい。

「変容空間」について、ほんのちょっとだけ教えてくれた。
その内容は想像を絶したものであった
勿論ここでは公開しないし、櫻井氏も公表しないだろう。
「お客さんが観たもの、感じたものが全てだから」。
ある意味、当たり前でも、理不尽でもある覚悟を抱いて、櫻井郁也氏は舞台に立っているのだ。

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