個性と普遍の思考の断片 

嵐の前の静けさというか、
恐ろしく忙しいはずなのに、
なにやら唐突に時間ができた。
今のうちにブログを書いてアップしておこう。

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長距離列車の中で、
やらなければならないこと、
考えなければならないこと、
やりたいこと、
気になるので考えたいことなどを書き出す。

概ね、優先順位は付けられる。
“やりたいこと”というのは、私の場合、やらなければならないことや考えなければならないことが気になってできない性格なので、大抵降りかかることの方の優先順位が高くなる。
しかし、こんな風に唐突に、ブログが書ける時間が出現するように、予定は未定でもある。

さて、この時間を何に使おうかと思うに、
外界から降りかかる、「考えなければならないこと」ではなく、
「気になって仕方ないので考え込みたいこと」を考えることにする。
通常、考えというのはかなり煮詰まって、煮しめたものを削り込んでブログに書いている。(固形に近くなるまで煮込んだものは、時として公式サイトの「文章」に行く。)
しかし、これから書くのは、ある意味ブログらしい、未完成の思考の断片。

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ここ数週間、脳裏にのしかかってきていること。
「個性と普遍」
「自我と無我」
という、ある意味おなじみのテーマ。

永年考えて、僅かなりとも見識を持っている気になっていたが、
最近、続けざまに、自分がまるっきり解ってないということを思い知る機会を得た。

で、改めて色々考えているのだが、テーマが巨大すぎてまとまらない。
なので、今後考えるヒントのために、その断片を列挙することにする。

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●たしかR・シュタイナーは「音楽は自我の芸術であり、他の芸術と全く違う」と言っていた筈だ。が、出典を明らかにするための、本をひっくり返す時間は、ない。あくまで、「はず」。

●「自我」とか「個性」とか「我」とか「自分」とかいうとき、人によって、同じ単語でもどうやら全く違う何かを指していることが非常に多いような気がする。当然、「無我」や「無個性」も状況は同じ。これはどうも、生まれ育った環境、特に教育に大きく左右されるものであるらしい。思い返すに、私自身は小学校、中学校、高校と、先生方は「精神注入棒」と書き込まれた木刀や竹刀を持ち歩き、「素直になれ!素直になれ!自分を捨てて素直になれ!」と殴る人が少なくなかった。そのときの「素直になる」というのは「服従する」という意味であったし、先生方は心からの服従を真剣に望んだ。繰り返し謝る生徒を「心がこもってない!」と何時間も殴り続ける先生もおられた。それが教育だったし、それが実現した上で、背が高かったり低かったり、柔道に励んだり剣道に打ち込んだりしている様子を見て「みんなそれぞれかけがえのない個性を持っている」と仰っていた。
「こういう教育ではない教育というものが、どうやらこの世には存在するらしい」と薄々気付きはじめたのは高校のころ、ラジオを聴いていてのことだったし、むしろ自分が受けた教育が特殊で、東京まで一時間とかからない土地なのに、まるで文化のエアポケットのような地域で育ったのだということを思い知ったのは大学に入ってからだった。私は今でもその教育を自ら修正し続けている。大人になったら自分のせいではないことの責任も取らなければならない、と昔誰かに教わったが、こういうことか。この自己修正・自己教育は生涯続くのだろう。(念のために記しておくが、私個人はそのような社会状況の中で、両親と担任に相当恵まれたと思う。私が今日廃人にも殺人鬼にもならずに生きているのは両親や担任の人徳に因るところが大きい)
そんな私だけではない。「自分」とか「個性」とかいう言葉の意味が、人によって、育ちによって、受けた教育によって、恐ろしいほど違うらしい。それが様々な齟齬の元になっているようだ。

●私個人の非常に主観的な印象として、「個の滅却」と「個の没却」には、決定的な違いがある。
「個の滅却」は、しばしば利己的な自虐である。滅却を強いる主体が本人の場合とそうでない場合が考えられるが、いずれにせよそれはいつか内面の深奥から復讐するか、最悪他人に投影されて周囲の人々に「正義」の形態を帯びて被害を及ぼす。
「個の没却」というとき、それは対象との一体化を指すことが多いようだ。最近読んだ禅の本で、「公案というのは考えて考えて、自我が問題に没却して、問題と一体化することに意味がある」というような記述があった。作家や心理学者、思想家、ある種の芸術家などが「コミットメント」「井戸掘り」「脳に釣り糸を垂らす」「対象との一体化」と呼ぶ状態が、「個の没却」と呼ばれる状態と合致することが多いような気がする。
しかし、「滅却」と「没却」の違いをちょっとぐぐったり辞書で調べたりしても、どうやらどこかに明確な使い分けの定義があるわけではないらしい。

●私は、シンセサイザーを操作するとき、シンセサイザーと自分との「一体化」を重視する。書家の手と筆が一体化するように。しかし、そのように一体化しているとき、私は「自分を捨てている、自分を消し去っている」とは全く感じていない。むしろ日常以上に自分になっていると感じている。そして、日常以上に自分であることは、必ずしも愉快なこととは限らない。よって、私にとって、音楽とは必ずしも「音を楽しむ」ものとは限らない。
無論、楽しいときもある‥気がする。
どうも、この「対象との一体化」。絵筆との一体化、被写体との一体化、譜面との一体化、楽器との一体化を「無我」とか「自分を消し去る」とか呼んでいる人たちがいるようだ。私とどっちが正しいかなんて、正解はない。「滅却」と「没却」ですら明確な定義は見当たらないのだ。ただ、そういう人がいるということ。そのことに、ごく最近気付いた。

●私が楽器と一体化しているとき、私はそれを「自分を消し去っている」とは思っておらず、むしろ「より自分になっている」と感じている。それは先にも書いた通り。しかしここに何か大きな、非常に大きな違い、なんというか、姿勢の違いのようなものがあって、それは極めて重要な違いであるにもかかわらず、明快な境界を設けられないものらしい。
尊敬し、今もなおその発言から学ぼうとしている人、B・イーノ氏。イーノ氏の最近のインタビューで、「Surrender(身を委ねる)」という概念が出てきた。氏によれば、
「Surrenderという概念には4つの人間の営みがあり、互いにオーバーラップしている。セックス、ドラッグ、アート、宗教だ」。
氏は「オーバーラップしている」と言っているだけで、同じとは言っていない。しかし、個を滅して師に帰依し、ドラッグ体験と一体化して真理を確信し、すくなくとも私にとっては見るに堪えないパフォーマンス・アートを行い、最終的に恐るべき行動に出た宗教団体を思い出さずにいられない。Surrender、即ち一体化した相手が何であるか。それを誰が、何によって判断するのか。

●人間は、自分の思考内容について、思考できる。だから思考できる限り、人間は自由への道を歩み続けられる。
しかし、人には思考の光を当てられない場所があるものだ。問題は、どこまで思考の光を拡げられるか。
そこで知りたいのは、「芸術作品を作る際、自分を消し去りたい」という芸術家は、創作の際に思考を放棄しているのかどうか。
この問題について思い出すのは、ある友人の彫刻家。彼は人の顔を無心に、私情を挟まずに鉄板から叩き出す。そして言う。「その人物の内面から来る顔の特徴は内側から、その人の生い立ちなど、外界から植え付けられた特徴は外側から叩くことになる」と。
そして彼は、ある漫画家を例に出して、「彼は自分に与する人物は徹底的に美しく描き、自分に敵対する人物は徹底的に醜く描く。私は彼よりも遥か先を行っている。これは傲慢でもなんでもない。」
彼の作品は一目見てそれと判る強烈な個性を持っている。「無心」によって顕われる「個性」。ここでもやはり、「無心」や「個性」という言葉が何を指すのか、人によって違っているという現実に思い至る。思考の光を向ける方角が違うのだということは解る気がする。しかしそれだけだろうか。

●つまるところ、「無心」「個の没却、あるいは滅却」というとき、他の誰かに自我を乗っ取られていないかどうかということ。それは人間とは限らないし、他人とも限らない。(自分の中の自分ではない何かに、自我が乗っ取られることは、珍しいことではない。)
しかし、それを誰が、どうやって判断するのか。
自問自答するしかないのか。

●「人は生まれながらに悟っている。人は生まれながらに仏性を宿している。何もかもありのままでいいのだから、はじめから何もしなくて良い」という考えは、「無事禅」と呼ばれる邪道だと読んだことがあるのだが、最近読んだ本ではそういう考えを「野狐禅」と呼んでいた。それに対して、禅の対極とも言える浄土真宗でも似たようなことがあって、自分はもう救われたのだから、と怠惰や放埓に行くのを「異安心(いあんじん)」と呼ぶのだそうだ。

●全てはほんの僅かな違いでしかない。
その違いが、これ以上違うものはないというくらい、違う場所に人を連れて行く。そして、これ以上遠いものはいないという者同士が、雑穀のように入り混じっている。いや、一人の人間の中にも、これ以上違うものはないというほど違うものが、双子のようにそっくりになって、住み着いていたりする。

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●これだけ書いても、まだ断片すらあまねく書けているわけではない。
たとえばユングはなぜ普遍化を個性化と呼んだのか、腑に落ちる説明を読んだことがない。
芸術家にとって「業(ごう)」は克服すべきものなのか否か。私の場合、そもそも業が推進力となって作品が作れらていく。ある日、写真をPCで調整していて、自分が追い求める色というのは、じつはその色を追い求めているのではなく、むしろある特定の色を嫌悪する心がその本質であることに気付いたことがある。(白黒写真からある色を減らしたら、私の追い求める色が現れたのだ。)色だけに限らない。以前「業と秋桜」という写真詩をアップしたが、これは、一面咲き乱れるコスモスを否定しつつ切り刻んで撮影して、その写真を納得行くまでクロップし、納得行くまで明度と彩度を追い込み、色を何十回も試して抜いて、特定の場所だけぼかしたり、特定の場所だけ明るくしたりして、最終的に心の中にある神殿の入り口と呼びうるところまで、ありのままのコスモスを否定して作った代物である。
そして、ここまで書いて、この文章を書く前に最も気になっていた事柄を書いていないことに気付いた。ユングが見たという夢について。自分より偉大な存在が見ている夢が、自分なのだ、という夢。私は、誰かが見ている夢なのだろうか。その夢見る主体は、人間と呼びうるのか。普遍と呼びうるのか。いったい何であるのか。
ほかにも、考えなければならないことはいっぱいある。

むずかしい。

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