思考と思考以前 

禅堂で一人坐っていると、禅師がおいでになる。
自分はまだ坐ることは出来ないが、終わったらお茶でも飲まないか、と仰せである。

というわけで、坐禅を終えてから、師と対話。

ここ数年のたて続けの入院について。

「今回は意識がはっきりしてるぶん、辛いっちゃぁ一番つらかったけど、
うろたえるようなことはさすがになかったなぁ。
気持ちをさ、下へ下へと降ろすことが出来るようになってるからね。」

師はしばしば「降ろす」という言葉をお使いになる。
気持ちを降ろす。心を降ろす。
師は警策(けいさく)をお使いにならない。
「警策でさ、バシッと叩くやつさ、あれやられて、ああ、叩くってのはこうやるのかっていうような、叩くのがうまい人は、30年坐ってて2人だったな。いや、あの人いれて3人かな?
叩くなんてさ、ほんとはさ、今こそ叩く時だなんて瞬間、一生に何度も来ないんだよ。ありゃ眠気覚ましじゃないんでね。
あれはさ。血を降ろすのよ。血をね。下にね。ずーっとね。」

膝の容態と、その意味について。

「いやぁ、骨はもうくっついてるんだけどねぇ。腿のスジが硬くつっぱっちまってねぇ。自分でお灸焼いたりして、ずいぶん治りが速いとは言われてるけどねぇ。もう足は曲げずに、正座せずに暮らしなさいとか言うんでねぇ、いやそりゃ困るって言ってさ、じゃぁもうちょっとリハビリやりますかって、リハビリってのが痛ぇのなんの。わはは。
今回こうなった意味、判ったよ。はっきりとね。
いろいろさ、頭で考えてさ、こうやったらいいだろうとか、こうするべきだろうとか、こうするのが正しいだろうとか、思ってたからね。
そうじゃねぇ、そっちじゃねぇ、って意味だよ。これ。
つまりさ、どう考えても正しいこととか、どう考えてもやるべきこととか、どう考えてもやったほうがいいこととか。お前はそういうのより一段下の、深いもんに従っていけ、ってこったな。
頭で考えて正しいことよりも深いとこの、ずんっとしたやつね。
お前はそっちで生きてけと。そういうことだな。うん。」

どう考えても正しいのに、そっちに行けない。
どう考えても頭では意味が判らないことを、強制もされてないのに、やらざるを得ない。
そういうのなら、私にも覚えがある。
羅針盤とは、結局のところ、そういうものかもしれない。

しかし。
頭で分かってても、どうしても悪いことしちゃう人や、
どうしても妙なことをしちゃう症状を持つ、多くの人々。
そこの線はどう引けばいいのか。
個人の内部では、引く必要がないのか。

うむ。
次の談話のとき、機会を得られれば伺ってみるか。

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