見牛と得牛の間辺り。但し推定。 

禅堂で一人坐り、帰り際に文殊大士像に礼拝していて、
「あ、そっか。」
と声に出してしまった。

文殊大士(文殊菩薩)がなぜ獅子の上に坐禅しているのか。
それがわかった。

悟ったとは言わない。
むしろ悟ることがどのくらい遠いことか、悟った。

多くの禅者の皆様の、
あらゆる説明を拒む立場というのは、
大いに理解することが出来た。

もしも説明するなら、もっとえらい人や、もっとすごい人や、
もっと口のうまい人ですらも、
だいたい同じようにしか説明なさらないと思う。
つくづく、知識と理解は違う。

以上を踏まえた上で、
えらそうな、無理やりな、ヒント。

R・シュタイナーの言う「破壊の坩堝」。
古代ギリシャの「御者像」。

あ。
たった2行のヒントで、
すでに少しズレてるのが、自分でわかる。
これは確かに、説明しづらい。

それにしても。
坐禅、とりわけ曹洞禅って、
シュタイナーの言う“内的平静”を確かにするもの程度に思ってました。

ぜんぜんちがいますね。
こりゃ、すごい世界だわ。

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