見られてない実感 

「神の沈黙」という言葉がある。
かみさまが黙ってる感じ。
ベルイマンの映画だと、“神の沈黙三部作”と呼ばれる作品群よりも、むしろ「処女の泉」のラストなどに、私は「かみさまが黙ってる感じ」を見て取る。
まったく酷い状況に対して、
「ひでぇな。そうきたかよ。カミサマ。」
と空をチラ見する感じ。
つまり、“神も仏もないような状態”であっても、
その状況に対して、うすうす神の目線を感じることができるということ。
神も仏もない状況であっても、それすらも神の意図の中にある、という実感。
あるいは、神の意に反した事柄に対しても、神は手を出さず、黙って地上の出来事を見つめているのだ、という実感。

しかし。
神の目線を感じないという状況を、いったいどう考えたらよいのだろう。

「ああ、今、この瞬間、確かに、確実に、カミサマは、見ていない。」
という実感を感じるとき。


これは滅多にない。というか、最近初めて感じた。
べつに、いつもカミサマの目線を感じて生きてるわけはない。しかし、いやそれだからこそ、『見られてない』という実感は、驚くべき体験であった。
これは体験してみないと分らないものかもしれない。あの体験は、たとえ無神論者や唯物論者であっても、同様に体験すれば驚くに違いないと思った。

退院なさった禅師に、ちょっとだけ伺ってみた。
(書かなかったけど、禅師はまた入院なされていたのです。)

禅師の仰ることを総合すると、どうやら、その実感というのも、ある種の神秘体験、あるいは宗教体験と呼びうるものかもしれない、ということのようだ。

すると、神々は、人間の状況に対して、
見えてるけど手も口も出さない(或いは出せない)ところと、
ほんとうに見えてないところがある、ということになる。

たぶん、R・シュタイナーのキリスト論と社会論をひっくり返すと、ヒントが出てくると思う。
けれども、本棚をひっくり返す時間は、ない。

あの強烈な『見られてない実感』は、
今後の人生でも何度か体験させられそうな、
そんな予感がする。

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