無限にA=A´、及びそれ以外 

あたりまえと思っていることなら、
かなりの事が当てはまる。

たとえば仮に、そのあたりまえのことを、A=A´ とする。

「A=A´。あたりまえじゃん。」とか思う。

そのうち、
「うわー。あたりまえって思ってたけど、
ほんとにA=A´なんだな。」
って思うような体験をする。

そうやって、
「みんな当たり前に思ってるけど、
じつはA=A´って、すごいことなんだよな」
などと思いながら歳月を重ねていく。
歳月を重ねていくうちに、ある日突然、

「何てことだ!A=A´じゃないか!!」
と愕然とする事態に直面する。

A=A´のところに、いろいろ当てはめてみるといい。
「青空は、青い。」
「ものは、こわれる。」
「ひとのことは、よくわからない。」
「ドとミとソを同時に鳴らすと、ドミソの和音になる。」
「自分はいま、生きている。」

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修証一如:
悟りと修行ってのは、違うもんではなくって、同じものなんだ。修行を始めたら、それはもう悟ったってことなんだよ。

証後之修:
悟りってのは、果てがないもんなんだ。だから、悟ったからって、修行を怠ってはならないんだよ。

(以上、舟沢が勝手に意訳)
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そういうわけで、
時折自分の書いた昔の文章を読み返してみて、
若いなあ、と今の自分が思ったとしても、
今思うことと、文章上は大して変わらなかったりする。
なので、推敲はするけど、あまり削除はしない。

このへんを考えると、故・河合隼雄氏はとても巧く文章を書く人であった。
人によっては読んでて失笑するくらい、平易なことを書く。
小学生でもすらすら読めるくらい、平易に書く。
しかし内容は、わかればわかるほど、おそろしい。

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同時に、上記のような果てしなさに当てはまらない事柄にも、しばしば出くわす。
すなわち、まるっきり無知だった事柄。
それを知ることは、素晴らしいことでもありうるし、
残念なことに、耐え難いことでもありうる。
そういえば、歴史上の禅僧はしばしば、
「悟りなんかに、大した価値は無い。」
みたいなことを口にしているのを読むことがある。
あれは、無知を知に変えるほうが価値がある、という意味なのかもしれない。
傍目に見てあたりまえのことを、あたりまえのままに放置している人を見ると、ああ、あれじゃだめかもな、と思うし。

それに、自分が無知無能であることを思いっきり体験させられると、その時には茫然自失と半狂乱の入り混じった状態に陥ったとしても、ある程度時が経って、内省できるところまで来ると、これってもしかしたら、自分があたりまえのことをあたりまえとして放置していたツケを払っているのかもしれない、などと思ったりもする。

むずかしいのは、
それならあたりまえのことをあたりまえのまま放置するのをやめようと思って、あたりまえのものを見つめてみても、あたりまえのものはあたりまえのままだ、ということ。
現代社会のせいか、私のせいかわからいけど、
私にはやはり、坐禅と日常生活は、
かなり違うものに思えてしまう。
典座(てんぞ。禅寺の炊事)のような気分で、日々の仕事に一心に打ち込んでいると、途方もないしっぺ返しを喰らったりするのだ。(もちろん私が至らないからかもしれないけど。)

こうして考えると、知ることで世界が組み変わる体験と、
知ったところで世界が組み変わらない体験が、
別種でありながら、
猛烈な重さを持っている、
ということなのかもしれない。
さらに言えば、それは意識化できる場合とできない場合があり、
総じて意識化することを体験と呼び、
体験が最も重要、ともいえるし、
体験できない事柄が最も重要、とも言える。

むずかしいですね。
あーあ、書いてて難しくなっちゃった、
って自分でも思います。

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