仮面の展覧会 

千葉市美術館で「MASKS-仮の面」という展覧会をやってて、
ふらりと見に行く。
私は、仮面というものを、あまり理解していない気がする。
“自我の変容”とでもいうのだろうか、
そういうものに対する感受性が、どうも低いらしい。
そういう、いわば不得意なものをじっくり体験するのは、
じつは人生の醍醐味ともいえる。
とくに「つらいけどがんばって見る」わけでもないので、
いわば副作用なしに希少な栄養が摂取できる。

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仮面についての展覧会だが、
日本を含むアジア、アフリカ、南アメリカの仮面が大半。
仮面と言っても非常に多様な用途があることを知る。
しかも、複数の用途が曖昧に入り混じっている場合もある。

そもそも被るための仮面ではなく、
奉納のために作られた面というのが非常に多い。
そういった奉納用であっても、人が被っても前が見えるように目に穴を開けてある場合がある。
つまり、用途が限定されているようで、どこか限定されていない。

どう見ても「仮面」とは呼べない、人間くらいの大きさの、神殿のミニチュアかなにかのようなものがあるが、説明を読むと、普段は聖なる場所に『ご神体』みたいな感じで置いてあって、儀式のときはそれを持ち出して頭に載せて踊る、なんていうのもある。(どうすればあれが頭に載るのか、ちょっと想像はつかなかった)
逆に人が被れないほど小さい面もあり、その多くが頭上に載せて顔を布で覆うタイプの仮面であったが、面白かったのは、村なり家なりの聖域に大きい「それ」が安置してあって、それの小さいものを持ち歩く事で「それ」とのつながりを維持する、という用途のものもあった。
「端末」みたいな感じか。

それと、仮面というのはえてして恐ろしい表情であることを知る。
文化が違うせいでたまたま怖い顔に見えるのではなく、
怖い顔に作って、魔よけに使うのだ。
逆に、東南アジアの地域によっては、
不吉な仮面というのは笑顔の場合がある。
不幸は笑顔で訪れるものだ、と考える地域があるわけか。

驚いたのは、用途が「判らない」仮面。
飾り用でも、儀式用でも、奉納用でも、演劇用でもなく、
その顔が何を表しているのかも、「わからない」。
蒐集した側はもちろん、作っている当の部族にも、
その仮面が何のために作られるのか、「わからない」。

この、「わからない」というところに、
仮面というものが持っている危険性を感じ取るのだが、
もともと仮面に対する感性が強くないので、
どこがどう危ないのか、うまく言葉にできない。

非常に技術的に「巧い」仮面と、
とても「素朴な」仮面が、同列に陳列してある。
そもそも毎年祭りのために普通の人が作って、
祭りが終わると燃やしてしまう仮面だったので、
残っているのが非常に貴重だ、という但し書きがあったりして、
名作だから後世に残ったものばかりではないらしいとわかる。
そもそも巧拙など大した問題ではない仮面も、たくさん後世に残っているわけだ。
逆に、名工が心血を注いだ傑作であっても、数百年の間に壊れ、人々から忘れ去られた面も多いことだろう。

一つ一つの面を、一つ一つの音楽に見立てて、
数百年後に陳列される音楽のことを思い浮かべる。

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