時空間における「緑」の重奏 

拙作「」について、いくばくか言葉にしたことがあっただろうか、とブログ内を検索してみたが、見当たらなかった。
ライナーに記し、Webにも公開されている詩で十分だという思いもある。
詩以上のこと記して、主知主義的に受け取られることに対する警戒心もある。
詩以上のことを記して、聴く人の自由を阻害しはしないかという危惧もある。
そんなこんなで書いていなかったのかもしれない。

そして、以下に書くことも、もちろんのこと、
この曲について多少なりとも言語化できる部分の、全てではない。

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一つ目は、私の極めて個人的な、幼少時の強迫観念、そして悪夢のこと。
幼少時、私は、
「夕暮れの藪の小道で一人ぼっちにされる」
というヴィジョンに、しばしば苛まれていた。
雑木林の中に、人が一人通れる、曲がりくねった道ができている。
上のほうは生い茂った緑が迫ってきていて、空は全く見えない。
そういう場所で道に迷い、日が暮れていく。
そういうヴィジョンというか、予期不安のような何かに、
私はしばしば怯える子供であった。
夢にも見た。
夢の中では、その藪の小道の彼方に、
小さく、母の背中が見える。
慌てて母を追おうとするが、あっという間に見失う。
あとには、夕暮れと、全方位から迫ってくる深緑と、
雑木林のざわめきだけが残る。
その中で、一人ぼっちで、迫り来る闇に怯えている。
そんな夢を見ては、怯えて目覚める子供であった。

(余談だが、昨年、一人で鋸山という山に登ってきたのだが、夢で見た藪によく似た藪があった。
私は幼少時、一度両親に鋸山にハイキングに連れられて行ったので、その辺りのヴィジョンや体験が、記憶の底に何か攪拌されているのかもしれない。)

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二つ目は、1990年代に体験した、ある種の神秘体験のこと。
神秘学の文献における、
「現在よりも二つ前の宇宙において、我々人間は、現在の植物と比較しうるような存在であり、現在の人間の熟睡中と比較しうるような暗い意識状態にあった。そのことは、輪廻転生を重ねてきた我々の土台の一部であるので、“思い出す”ことが可能である。この時期の宇宙は、“太陽期”と呼ばれる」という記述。
「ある種の鉱物の色彩を体験するとき、その色彩体験に該当する過去の宇宙を、我々人間は追体験している」という講義。
当時流行していたニューエイジの一派が語っていた、「太陽の本質は緑色なのだ」という主張。
エメラルドを深く沈潜しつつ見つめるときの意識。
これらについて沈思黙考していたら、いつもの電車の中で、唐突にその体験はやってきた。
私が緑色だとも言えるし、緑色が私だとも言える意識状態。
意識が緑色と化したとも言えるし、全身が緑そのものと一体化したとも言える意識状態。
そこでは確かに、私は、緑色そのものであり、それは鉱物の内部のようでもあり、気体のようでもあり、ある種の光のような何かでもあった。
その、音楽体験と辛うじて比較しうる特異な神秘体験は、数十秒~数分続き、その余韻は半日ほど続いた。

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前述のように、これが全てはでないことは言うまでもないが、
こういった体験、ヴィジョン、思索などを積み重ね、
それを電子音としてプログラミングし、
プログラミングされたシンセサイザーを、
1時間ほど、文字通り全身で弾いたのが、「」である。
その時の意識状態や意志のありよう、体力のありようはもちろんのこと、
その“天啓が降りてくるようにプログラミングを行なった”シンセサイザーも下取りに出してしまったので、
二度と再現できない。

このプロセスは、多かれ少なかれ、いつものことだ。
幼少時の悪夢。大人になってからの思索と神秘体験。それを踏まえての更なる思索。そしてついに降りてくるプログラミング。それの実現。それを身体で演奏。それを録音として成立するように、更なる磨きこみ。

一瞬の出来事が、生涯を貫く。
生涯を貫く一瞬の出来事が、いくつも縫い合わされる。
それを、自律した一つの作品として、成立させる。
そしてそれは、録音の中に注ぎ込まれている。

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日付けが変わって昨日、「Dance Medium」という舞踏団さんが、
」を全編に使用して下さり、宮沢賢治をモチーフに舞踏を踊ってくださった。

拝見していてすぐに気付いたのは、
舞台背景に、照明によって描かれた文様である。
植物的とも、鉱物的とも受け取れる、有機的で幾何学的な文様。
これはまず、自分がこの曲を作る際に見たヴィジョンと通底していると気付いた。
そしてほどなくして、宮沢賢治自身が、植物とも鉱物ともつかない、“人間に通低している植物的、鉱物的な、宇宙的な過去のヴィジョン”らしきものを、数多く描き遺した人であることに気付いた。

ほどなくして、演者の皆さんの、奇声、掛け声。
これは確かに、幼少時に「暗い藪の中で一人にされて、聞こえて来たらどうしよう」と怯えた、その耳に聞こえぬ声と通低しているように聞こえた。

複雑につながっているのだ。

私の中に残り続ける幼少時の強迫観念も、
神秘学の宇宙に関する記述も、
私の一瞬の神秘体験も、
永遠であるに違いない鉱物の結晶の色彩も、
宮沢賢治の遺した走り書きのような絵画も、
その詩や小説も、
舞踏家が虚空に呼びかける奇声も、
一瞬と永遠、自分と他人、主観と客観、過去と現在の区別なく、
すべて、一つの“何か”として、
通低しながら、時空間を越えて、
いまも縫い合わされ続けているのだ。

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このようなことがなければ優れた芸術/芸術家ではない、などとは言わない。
そうでなくても素晴らしいものはいくらでもあるし、
そう思えなくても今の自分が知覚出来ないだけかもしれないし、
そうでないということ自体が“未来の断片”としての価値が高い、という考え方もあろう。
ただ、自分の仕事が、もはや時空間や主観客観をを越えた何かの一部である、という体験は、
滅多に経験するものではない。

珍しい経験であったので、文章化した次第です。
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