「死ね」を踊るとどうなるか 

私は、舞踏の方々と、縁が深い。
舞踏公演のために曲を作らせて頂くことも多いし、
既に出来上がった曲を使って頂くこと多い。

舞踏の為に曲を作るときはもちろん、
そうでないときであっても、
「これを舞踏で踊るとこんな踊りになるだろう」
という、個人的な踊りのイメージを持っていることが多い。
そして、当たり前なのか意外なのかわからないが、
私が曲を作るに当たって思い描いたダンスのイメージと、
本職の舞踏家さんがその曲で踊るときの振り・動きは、
まったく違うものになることが多い。

ほとんど毎回意外に思うし、
ほとんどその都度、
「人のイメージは違って当たり前」と思い直す。

だから、自分で「この曲は踊りにするとこういう感じになるだろうな」とイメージしているものに、近い振り・動きを見ると、ぐるっと一週して、
「あれ?思ってたのと近いぞ?」
と意外に思ったりもする。
これは、滅多にないことだ。

この滅多にない、「自分のイメージした踊りと似た踊り」をしばしば振り付ける舞踏団に、「赤色彗星館」というのがあった。(現在は活動を「封印」とのこと。)
で、赤色彗星館からソロになった、
点滅という人もまた、
しばしば舟沢作品を使用/委嘱してくださり、
しばしば舟沢のイメージに近い踊りをなさる。

作曲者のイメージに近い踊りを踊ることが、
良いことなのか悪いことなのか、わからない。
そもそもこういうことが、「相性がいい」ことなのかどうかも、
煎じ詰めて考えると、よくわからない。
ただ、点滅さんは、しばしば、
舟沢がイメージした踊りに、非常に近い踊りを踊って下さる。
(当たり前だが、舟沢から舞踏家さんに対して「こういう動きで踊ってくれ」などと口にすることは、ない。)

で、過日、その点滅さんから、
拙作「否定の果て」に収録されている、
「死ね」
というタイトルの曲を、公演で踊りたい、
というオファーが来た。

これに対して、私は、考え込んでしまった。
大抵の舞踏家さんは、こちらのイメージとは違う踊りをする。
私は、概ね、そういうものだと思っている。
ところが、点滅さんは、かなりの頻度で、
こちらのイメージに近い振りで踊る。
こちらが何も言わないのにだ。

そして、私のイメージの中で、
「死ね」という曲は、踊りにすると、
“そんなことをしたら人間は死んでしまう”
という動きになる音楽なのである。

あの曲を私のイメージ通りに踊ったら、
死んでしまうか、大怪我をするはずだ。
さて、点滅さんは何を考えておられるのだろう。

点滅さんにお会いした際、
思い切って、口にしてみた。
「あの、あの曲なのですが、ほんとうの本気で踊ろうとなさっているのですか。
あれは、私の中では、曲どおりに踊ったら、死ぬかも知れない曲なのですが。」と。

いろいろお話を伺ってわかったのは、
・どうやら「死ね」という曲について、点滅さんに、それほど大きな“創造的誤解”はないように思われる。
・どうも点滅さんは、私が「死ね」を作った当時の体験――追放と孤立――に該当する体験と、本質的には近い体験をしているものの、それが「街頭」「路上」というイメージと結びついているらしい。(どうもお話を伺っていると、点滅さんにとって、孤立とは人混みの中に放り込まれるような体験であったような気がする)
・ある程度「死ね」という楽曲を理解した上で、“それでも死なずに踊る”方法が点滅さんの頭にあるらしい

といったところである。
私は今から、「死ね」を死なずに踊る、それも誤解なしに踊るということがどういうことなのか、考えている。
そして、今回は、「舞踏」というジャンルからは多少逸脱した公演になるかもしれない、とも伺った。
どうなるのだろう。
考えても仕方が無いのだが。
確かめで見るしかないのだが。

そういうわけで、点滅舞踏公演「耳なし芳一外伝」、
私からもよろしくお願い致します。

ロビーで物販もさせて頂きますので、
お越しの際は覗いてみて下さい。

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