神秘学メモ(断片) 

日々、折に触れ考えている事を、
テキストファイルにメモしてある。
だが、いつまで経っても考察がまとまらないものもある。
特に、神秘学関連の進まない考察メモが、すっかり溜まってしまった。
ここにまとまらないまま、断片としてアップロードしておく。

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鎌倉仏教・法然の南無阿弥陀仏と親鸞の南無阿弥陀仏は本当に同じなのか、しばしばわからなくなる。が、キリスト教・ヨアキム主義における「パラクレート」―すなわち一つであり、かつ全く個別のものでもある―と考えると、思うところがあったりもする。

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日本では「お天道さんが見てる」という言い方があるが、
「お天道さんが見てない」、という経験をする事がある。
「神も仏もありゃしない」などという生易しいものではなく、
はっきり、くっきりと、
「あっ、今この瞬間、神々には、このことが、見えていない。」
という、圧倒的な実感。(以前このブログに「無神感」として書いてた)
じつは、この“神々に見えない部分”を体験するために、
ゴルゴタの秘蹟があったのではないか。
(神秘学を学ぶ人からは「いま気づいたのか」と失笑されそうだし、
クリスチャンの方には怒られそうな考え方でもあるが、
どうかご容赦いただきたい。)
だとすれば、「復活」とは、「聖霊」とは、「パラクレート」とは、
一体どのようなものか。
阿弥陀仏=アミターバとパラクレートは同じものか、よく考える。
似たようなことを考える人は多いようだけれど、
宗教・宗派によって見解が違いすぎるので、
自分で実感する以外に方法がなさそうだ。
(わが禅師も緘黙しておられた)

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真夜中の太陽、ハイマートローザー(故郷喪失者)、楽園追放、ゴルゴタ、ニーチェの「善悪の彼岸」。自分が近年経験しているものがどれに近いのか、判らない。私にも黒い太陽を見る日が来るのか。私は魑魅魍魎の一員となり、万人の万人に対する戦いに入るのか。あるいは、どうしたらいいか判らぬまま、じわじわと死んでいくのか。
(このメモをいつ書いたか忘れたが、心情も考察も、今の自分よりほんの少し若い。)

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真宗の方々には怒られそうだが、
私は、「歎異抄」は、大人がこっそり一人で読んで、
一人で考えるものだと思う。
真宗の篤い信者「妙好人」とされる人の言葉などを目にしていて、
時折「ん?この言葉、違う」と思うことがあるが、
それを他人に口にすることはない。
議論をしたって結局は口がうまい方が勝ってしまうし、
「勝ち負けじゃないんだよねー」と相手をねじ伏せることもできる。
より上手に相手を「違う」と歎いてみせた方が勝ってしまうのだ。
だから、解った人は解ったまま。何かが違う人は違うまま。
それで何かが違う人が矯正されたら、それこそが「他力」ではないか。

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鎌倉仏教について。
「日本的仏教ではなく仏教的日本。
仏教が噴出口として機能した。」
というメモがある。
この記述をどこかで読んで驚愕し、
慌ててメモした記憶はあるが、
どこで読んだのか、思い出せない。

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道元は坐禅すること自体が既に悟りと同等だと言ったそうだ。
向かうことそれ自体がゴールであるという考え方。
「到達するかどうかではなく、向かうということ、それ自体」という考え方。

もしもリルケにパトロンがいなかったら、
「ドゥイノの悲歌」を書けなかったろうし、
「若き詩人への手紙」も、あんなふうには書かなかった気がする。
「ただひたすら内観して書く」というアドバイスには、
適用範囲、或いは耐用年数のようなものがあるのかもしれない。
そう思い始めている。

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「無敵の人」の犯罪について。
被告/受刑者の「経験者にしかわからない」という主張は、よくわかる。
精神科医や検察がその心情を把握しきれない、
というのもありそうな話だとも思う。
「解る必要などない。さっさと死刑にしろ」という人の心情も解る。
私は、じつは、ああいうのを、それほど新しいタイプの犯罪だとは思っていない。
昭和の極悪人の取り調べテープなどを聴く機会があっても、
ああ、「無敵の人」と同じ経験が昔もあったのだな、と思う。
私が興味があるのは、
「あれ」を経験した人間の行動として考えたとき、
ああいった犯罪は、
パラクレートなり阿弥陀仏なりが「その人にまだ到達していない」から生じたのか、
パラクレートなり阿弥陀仏なりが「やらせている」のか、
そこのところである。

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R・シュタイナーの瞑想マントラ。
寝る前と朝起きてからやる一連のシリーズ。
「キリスト」に関する瞑想だけが、
他の瞑想と真逆になっている。
(シュタイナー「冥想と祈りの言葉」西川隆範訳 参照)
やってみると、みるみる自分が地上に落ちていくのが解る。
キリストを感じるという事と、諸天と遠ざかるということ。
まさに「神秘学」。秘密なのだ。

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神秘学に詳しい友人が、
「カルマの事はカルマがやるからよ」
と言ったことがある。
我が禅師は、
「坐禅が坐禅を導くんだよ」
と仰る。
よく似た言葉だが、同じ事を言っているかどうかは、解らない。

認識できず、意識化もできないまま、
自分の中の何かが、どこかへと向かう。

禅系の人も、念仏系の人も、
「全てはほんのわずかな違いでしかない。
そのわずかな違いが決定的なものとなる。」
といったようなことを書き残しておられる。

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ここまで整理しつつ書いていて、いま、
「猛烈に巨大で明るい何か」
が通り過ぎたような気がした。
何だったのかは、解らない。

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どの神秘学文献だったか忘れたが、
「人は悪しき行いに応じて、
来世で嘘をつく傾向が強まり、
嘘をつく傾向に応じて、
来世の肉体の内臓器官が乱れる傾向が生じる」
と読んだ記憶がある。
このプロセスを考えると、
何度か生まれ変わって、ましな人間になっていく際に、
「知る」という経験が入らない場合があることになる。
悪い行為の多い人生→嘘の多い人生→内蔵の乱れた人生。
そのまた次の人生では、悪いことも嘘も少なく、
内臓疾患も少ない人生が待っている、とすると、
悪いことをしないとか、嘘をつかないとか、
そういうことを当人が「思い知る」ことなしに、
物事が精算されていくことがあり得る、ということになる。
この「他力」と、真宗の「他力」は、全く違うもののような気がする。
が、抑圧されていない、潜在意識ですらない無意識、という点では、
ほとんど同じことのようにも思えてくる。

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まとめる事なしにメモしたままの文章を、
まとめる事なしに列挙したので、
大層まとまりのない文章になった。

この歳になってこの程度の認識であり、
このまま忙しく生活し、老眼が進んでいく事を考えると、
これらの文章をまとめる日は、来ない気がする。
なので、未完のまま、ブログに載せることにした次第。

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