遠縁、あるいは“行き過ぎた北” 



ロバート・ローゼンフラム著
「近代絵画と北方ロマン主義の伝統 ―フリードリヒからロスコへ―」
読了。

まず、「C・Dフリードリヒとマーク・ロスコを同列に論じた書籍がある」と知り、
それがこの本であることを突き止め、探し、
見つからずにネットオークションの自動アラートに登録し、
一度は出品されたものの、あまりの高騰に落札をあきらめ、
今年に入って、「廃棄本」という注意書きで出品されたものを入手した。
入手してみるとカバーはなく、背表紙に図書館風の識別シールが貼ってあり、
某大学のシールも貼ってあり、
「図書廃棄証明書」なる紙も貼り付けてあって、その紙には、
「○○キャンパス図書館への統合により不要となった」旨、書いてある。
シールだらけのわりには、本は新品同様である。
その大学の学生は、殆ど誰も読まなかったのだろう。

私はこの本のことを知ってから入手するまで
7年ほどかかり、読むのに半年ほどかかった。

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私が好ましく思うものは、世界に点在している。
それらには、多くの場合、関連性がない。
だから、自分という存在の霊統・血脈が、わからない。
自分の魂がどこかに帰属しているのかどうかも、わからない。

そのことを、大層気に病む人生であった。

なので、私が畏敬の念を抱いている
フリードリヒとロスコという、
時代も国も作風も違う画家を、
ある種の伝統として追う試みをしている書物があるとなれば、
自分の人生の整理として、
是非、死ぬ前に読んでおきたいと思っていたのだ。

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著者自身が、この本は挑戦的な試みであり、
確固たる歴史的真実と思われると悲しいと、
まえがきに記してある。

この本で「北方」というとき、
要するに近代芸術の中心―パリから見て北、ということのようだ。
そこに様々な画家の絵画が紹介され、
その共通点を論じていく。
フリードリヒとの比較で、サミュエル・パーマーという画家が出てくる。
その共通点として、風景に描かれているのが、
太陽なのか月なのか判断が難しいという。
その“太陽なのか月なのかわからない何か”は、
天体と言うよりもむしろ、“神格的な何か”なのではないか、ということ。
――要するに、舟沢が懸命に外化したり内化したりしてきた、
「円相」と同じことであろう。
そのようにして延々と近・現代の絵画を論じていき、
ムンク、カンディンスキー、エルンスト、モンドリアン、
ロスコ、バーネットニューマン、
他にも舟沢が知らなかった画家が大量に列挙され、論じられていく。

これらの芸術家は、懐疑と世俗に満ちた近・現代世界に於いて、
宗教に依らない、信じるに足る宗教体験を探求しているのだ――


――舟沢がこの大著を要約すると、大体こんな感じになる。
そして、絵描きではないけれど、自分もその一人のような気もする。

なーんだ、その程度のことか、と思わなくもない。
その程度の共通点でも「霊統・血脈、或いは帰属」と呼びうるか。
自分はモンゴロイドだとか、男だとか、その程度の分類だ、とまでは言わないが、
なんだか、かなり大ざっぱな帰属である。
もっとこう、何というか、
「自分を生きさせている上位概念存在の顔を見てやろう」
ぐらいに思っていたのだが、
遠縁の親戚に会って、どうも、と会釈して帰ってきたような気分だ。
案外、“魂の親戚”とも、会ってみれば、
会釈程度のものなのかもしれない。

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ただ、不思議なのは、
それがなぜ「北方」なのか、ということ。

この本に紹介されている画家にしても、
世界地図でパリを見ると、
「ほんとにパリより北にいた人か?」
と思う人も散見される。

つまり、方角ではなく、概念としての「北」なのだ。
以前、漢字の由来について、
「南」という漢字は、中国ミャオ族のシャーマンが、
トランス状態に入るのに使用する銅鼓の形が由来で、
「北」という漢字は、人と人が背を向けている様子に由来し、
「敗北」などの使用にその痕跡が認められる、
という文章を読んだ記憶がある。
(確か、片桐節也という人の「芸術の南北」という文章だったと思う。)

自我の弱まったカオスを漢字で「南」、
自我がきっちり固まっているのを漢字で「北」と呼ぶとすると、
自我がきっちり確立されている状態は、
R・ローゼンフラム氏の言う「パリ」、
つまり「北」ではなく「中央」ということになる。

では、この本で言われている「北方」というのは、
懐疑と世俗に満ち過ぎた現代社会、
すなわち、行き過ぎて硬化し、
あまりに屹立、あまりに孤立した自我のことか。

それを踏まえて、中央「パリ」を「東京」に読み替えれば、
20世紀後半の日本で、土方巽、寺山修司(敬称略)らが提示した、
「東北」という概念とも、酷似する。
(行き過ぎた屹立と緊張を強いられた自我が、
どこへ向かうのか、という方向性は違うけれど。)

「パリ」「東京」という、自我の中央以上の、「北」。
行き過ぎた科学文明、確立された個以上の個、としての「北」。
この、概念としての「北」と、
地理的・方位的な「北」との関連性が、よく解らない。
太古の漢字の成り立ちでも、世界の美術史でも、
20世紀後半の日本国内でもこれだけ符合するということは、
ここに客観的な何かが潜んでいるはずだ。
(この辺は、学者の皆様で考えて下さい。私の手には負えません。)

いずれにせよ、「北方」の人間がどう振る舞うかは、
西洋と東洋でもちょっと違うみたいだし、個人個人でも違う。
時代でも、結構なヴァリエーションがあるようだ。
人生の態度の問題だし、世界の認識法の違いだし。

境遇が同じでも、たどる道は、人によって、少しづつ違う。

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私は多分、結構古いことを書いているのだろうと思う。
ローゼンフラム氏の叙述だと、「超自然的なものへの追求は、
自然観察に向き直る場合がある」というやつ。
自然科学が科学信仰をやめつつ進むと、
芸術や宗教の世界認識と、しばしば似通ってくる。
「もの自体に語らせる」というやつだ。
落ち着きは脳内のセロトニン、人体のセロトニンの大半は小腸。肚。
金属の装飾品を作る際、R・シュタイナーは、はんだ付けを認めなかったそうだ。
21世紀は、もっと“もの”との折り合いが重視されるのだろう。
「出ろ!出ろ!自分の中でしか鳴ってない音、出ろ!」と、
電子回路に向かって悶々とするグノーシス的態度は20世紀的と呼べるだろうし、
現在継続中の「元型ドローン」と題したライブは、
まさに「20世紀的だった自らの人生の全う」と「21世紀的な新しい冒険」の汽水域で行っている。
私がこの文章を書いているのだって、半ば、自分の人生のまとめのためである。
(まだ死ぬ予定はないけど)

老眼が進む前に、この、
「近代絵画と北方ロマン主義の伝統 ―フリードリヒからロスコへ―」
を読み、自分の人生がどのようなものであるか、
多少なりとも概観できて、よかったと思う。

そして人生は続く。

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