電子持続音という階段の手すり 

次のライブの準備を進めている。

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坐禅後に我が禅師と対話していて、
珍しく禅師が私に何か意見があるらしく、
よくよくお話を伺い、私なりに咀嚼してみると、
どうも私のライブに、
「手すりがあればいいのに」
とでもいうようなことらしい。

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ライブシリーズ「元型ドローン」は、元々、絵画との対話のような形で始まった。
このことについては、毀誉褒貶があることを認識している。
「これからの芸術は対話でなければならない」から、
「それじゃあ人のふんどしで相撲を取っているじゃないか」まで。
そうこうしているうちに、徐々に、
絵画のない空間で、対話なしに音を発生させていくように、
絵画という「対話相手」を放下するようになってきた。
(放下とは、禅の言葉で「手放す」というような意味です)

それに、時には、
その空間で何が起きたのかを説明することもしてきた。
その場でなんらかのしぐさをすることもあったし、
ライブ中に何が起きていたのか、
ライブ後に(言葉にできる範囲で)ブログに書くこともあった。

数年かかって、経験を積み、
そういった仕草が殆ど他人には“伝わっていない”ことを学び、
あまり仕草もしなくなり、音以外の伝達も、放下していった。

そして、そもそもこのライブシリーズ「元型ドローン」は、
鍵盤も使用していない。“演奏”も放下してしまっている。

自分としては、「ずいぶん放下したな」、と思っていた。

時折、音楽で言う「機能和声」や「旋法」みたいなものが出ることもあるが、
それについても「今日は機能和声出してたじゃん」という人もおられる。
ゆくゆくはそういったものも放下しなきゃいけないのかな、
だとしたらずいぶん遠い道だな、と思うこともあった。

だが、ライブを聴いて下さっている我が禅師が思うには、煎じ詰めると、
「芸術としてはちょっと放下しすぎではないか」
というようなことらしい。
(具体的なお言葉ではありません。舟沢が自分の言葉に落とし込んで書いています。)
今の調子でいくと、メロディも、和音も、リズムも、映像も、言葉も、
何のとっかかりもなく、ただ“持続音”がある。
階段で言う「手すり」のようなものがあればいいのではないか、
そういうようなことらしい。

言われてみれば確かにそうだ、とも思う。
一応、専門のデザイナーさんにお願いできるようになってからは、
毎回、DM(フライヤー)のデザインが、
非常に重要なイメージとしてはある。
(優秀なデザイナーさんに、イメージをお伝えして作って頂いているのです)
だが、演奏中の目の前に、その映像があるわけではない。
以前、何度目だったか、デザインイメージの映像や円相を掲示しようと思ったこともあったのだが、
会場が画廊。勝手に美術を展示するようなことはできない。

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そこで思い出すのは、1990年代に、
体がボロボロになるまでやった、「霊機ライブ」である。
一年かけて音色(今で言うシンセサイザープログラム)と、
曲順(今で言うセットリスト)を作り込み、
自分が何をしているのかを詩のような文章にして、
会場に掲示したり、チラシに載せたりしていた。

(なぜパンフレットにしてお渡ししないのかというと、
演奏中に紙の音がしてしまうからです。)

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会場に掲示するか、
紙の音の心配のない“カード”のようなものを作るか、
どういう形にするか、これを書いている段階では決めていませんが、
来て下さる方の「手すり」になるような文章を書いて、
当日会場で読んで頂けるようにと考えています。

そういうわけで、元型ドローンVol.11
宜しくお願いします。

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