風景や自然と魂の一体化、及びその拒否について 

子供の頃のように、何気ない風景に心を奪われることが増えてきた。

それは、1~2年ほど前から、少しずつ始まっていた。
長距離列車の中で、車窓から見える夕暮れの緑や曇り空と、
自分の魂が一体化しようとしてしまう。
私は、(くそっ!まだだっ!)と自らを緊張させ、抗う。

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風景や自然と魂の一体化は、
子供の頃の私にとって、自明のことであった。

しかし、私以外の殆どの人にとって、
風景や自然と魂の一体化は、
看過できない“何か”であった。

小学生の頃だったか、
私が風景や自然と魂を一体化させて自転車を漕いでいると、
すれ違いざまに見知らぬ中学生が「ワッ!」と脅かしてくる。
そして去り際にケタケタ笑っている。
もちろん通行の邪魔になるような漕ぎ方をしているわけでもないし、
ぼーっとした顔をしてる(かもしれない)からと言って、
見知らぬ人に突然脅かされる理由になるとも思えない。

子供時代の私は風景や自然と魂が一体化することを
自力で止めることができなかったし、
どういうわけだか、それが起きている事を、人々は許すことが出来なかった。
私がジャングルジムの上で空と一体化したとき、
周囲の人間が突然私を蹴り落とし始めたことは、
ジャングルジム・フラッシュバック」で書いた。
今にして思えば、私が受けたいじめや迫害のかなりの部分は、
風景や自然と魂が一体化する現象が原因だったような気もしてくる。
ジャングルジムのてっぺんでも迫害が起こるわけだから、
私が風景や自然と魂を一体化させているときに、
特別いじめたくなるような馬鹿面をしているわけでもなかろう。
ジャングルジムのてっぺんで仰向けに寝ていれば、
下からは顔が見えない。そのジャングルジムは何ヶ月見ても、
誰も遊んでいないジャングルジムであったので、
誰かの遊びの邪魔になったわけでもない。
つまり、私以外の殆どの人々が生来体得していて、
私だけが生来持っていない“何か”によって、私は迫害を受けている。
それは何なのか。

親に相談してもさっぱり要領を得なかったし、
教師がいじめの現場を見つけても、
一応はいじめている側を叱りつつも、
「いじめられる側に、ほんとうに、原因は、ないのかな?」
と謎かけをして、何が起きているのかは教えてくれなかった。

私の魂が風景や自然と魂が一体化していることを、
私以外の人はどうやって見抜くのか。
そしてどのような理由・衝動を持って、それを迫害するのか。
それは、当時の私には、全く解らなかった。今でも殆ど解らない。

私が大人になるプロセスは、
私が自らの魂を、風景や自然と切り離すプロセスでもあった。
間断なく外界を、爆発的な意志によって否定すること。
外界に心を開かないこと。全てを憎しみで満たすこと。
そういう努力によって、私は大人になってきた。

その、意志によって閉じていた外界が、
もはや初老と呼んでもいいこの歳になって、
再び流入し始めている。
ライフサイクルが閉じ始めているのだろう。

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私は5月、6月の緑をとても愛している。
緑の中を歩いている途中、とても静かな風が吹き、
緑がわずかにざわめき、
心が空を飛び始める。
一応、周囲を見渡す。咎める通行人もいない。
まあたまにはいいだろう、いい歳になったし、周囲も安全だ、と、
意識が浮くに任せてみる。

なにやら上空が騒がしい。
最初のうちは、ああ、カラスが鳴いているのだな、くらいに思っていたが、
普段聞くカラスの鳴き声と、少し違う。
そのカラスに目を向けると、どうも私に対して大声で鳴いている。
巣でもあったか、大丈夫だよ、とそのまま歩いても、
100メートル近く追いかけてきて大声で鳴き続け、
先回りして私の行く道に木の枝を折ってわざと落としたりしている。
これはひょっとしてカラスに求愛でもされてるのか、とも思ったが、
家に戻って調べてみたらやはり威嚇で、
カラスは自分の巣の縄張りを半径20~100メートル持っており、
巣に近づいた人間、とりわけ顔を上げている人間を敵と見なし、
木の枝を落とすなどして威嚇する、のだそうだ。

なるほど。カラスに迫害される理由はわかった。
私が魂を風景や自然と一体化させているとき、
私の顔はやや上向きになる。
それがカラスには、どうしても許せない。

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先日、かなりまとまった雨が降った。
いつも散歩がてら通る道で、思わず足を止める。
雨に打たれる雑草があまりにも美しくて、
心が飛びそうになる。
ここで心を抗わせ、ふむ、ブログのネタにでもなるかな、
などと自分に言い聞かせ、スマートフォンで写真を撮ったりして、
植物との一体化に抗う。半分ぐらい心が開いた状態で、踏みとどまる。



子供の頃とは違い、かなり早い段階で刺さるような気配を感じる。
気配を感じる方角を見ると、傘を差した女性である。
10メートルほど先で、私の方を向いて、
傘で自分の顔を隠して、立ち止まっている。
私はやや大げさにスマホをかざし、雑草を見てるんです、という“気配”を出す。
少しずつ、傘で顔を隠した女性が近づいてくる気配がする。
そこに、反対側から男性が通りがかる。
その男性が私の背後を通り過ぎる瞬間を見計らって、
その女性はその男性と同時に私の背後を通り過ぎていった。

なるほど。
普通の人間は道端の雑草に感動したりしない。
雑草をスマホで撮影したりもしない。
そんな「人間がする筈のない行動」をしているので、
不審人物として女性から警戒されたのであろう。
たとえ昼間であっても、少なくともその女性にとって、
雑草に見入って雑草の写真を撮っている人物は、
自らの想像力を超えた異様な人間であった、ということだろう。
だから別の通行人と同時に通り過ぎなければ、
我が身に危険が及ぶ、と考えた。

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こうして考えてみると、
私に生来欠けているのは、
何らかの“野生”ではなかったか、と思うこともある。
風景や自然が、私と、私以外の人では、どうやら見え方が違う。
カラスも、大抵の人間も、そもそも雑草に感動などしない。

私は、じつは、旅行先ではあまり風景や自然に感動しない。
知らない場所にいる、という野性的な緊張感が現れ、
魂が風景や自然と一体化することは、殆どない。

私には、何らかの野生、何らかの動物性が、
生来、大幅に欠落しているらしい。
その何らかの野生が人並みに、充分にあれば、
人は日常の風景や雑草に感動したり、
それと一体化したりしないのだ。

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参禅後、禅師のお宅の猫を撫でながら考える。
誰もが持っている自明の動物性、自明の野生とは、
どのようなものかと。

私はこの猫と、「型」を使って仲良くなった。
猫にとって重要なのは自己防衛本能であり、
好かれるというより、まず危険がないことを知らしめることが肝要で、
それには「目が合ったら目をゆっくりとまばたきして攻撃心がないことを知らせる」
「攻撃しない事を示すためにゆっくりと背中を向ける」
といった知識を数年間実践していたら、
最初は走って逃げていた猫がゆっくりと逃げるように、
やがて逃げないように、そしてこちらがまばたきすると仰向けになるように、
最終的に「撫でろ」と言わんばかりに体を寄せてきてくれるようになった。

生来持っていない物、生涯持つことが出来ない性質を、
知識と経験によって補うことは、ある程度可能というわけだ。

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