音楽氷河期/二重に逆転する休符 

私は まだ 無音を 信じている
無音という音楽を 信じている
そんなふうに ひとりぼっちに なっていく

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ほんの一年ちょっと前に着想を得た詩。
発表のタイミングを見計らっていたら、
思いがけない方角に時代が変化し、あっという間に時期を逸し、
この詩が何を詠っているのか解らない時代になってしまった。

今では、耳と心を持つ人は大抵の場合、
いかに聴く音を減らすかに心を砕いている。
だから私が「休符は実在するんです」と言ったところで、
休符を聴くのは楽音を聞くよりはるかに気力を要するので、
殆どの人にとって、意味がない。
休符以前に、音自体を聴かずに済ませることが切実なのだ。

一方ではいいことであり、
一方では困ったことだ。
高校生ですら、耳がよければ「最近のJ-POPは聴きたくない」とブログに書き、
自分の愛する古い音楽を大切に、丁寧に、繰り返し聴いている。
経済競争のために考案された商品音楽に、耳と心のある人はもう飽きている。
しかし、そういう人たちは普段から「聴いてください!」とばかり
耳に注入される商業音楽を聴かないように気を配って暮らしているから、
人を押しのける経済競争の修羅に飛び込んでいない音楽に、
そもそもたどり着かない。
つまり、悪しき商業音楽と、古きよき有名な音楽しか“ない”。
非商業音楽は、ネット上では音のゴミに並列に置かれることになる。
「がんばったなぁ。この曲作るのに30分もかかっちゃった」
なんていう若者の気楽なテクノ百曲の中にポツリといい音楽が1曲あっても、
気付かれることはまずあるまい。

じつは商業音楽に心エネルギーをこっそり混入させることも困難になりつつある。
じつはここ数年、ゲーム音楽などでは、
「鳴り始めても気付かない、鳴ってても気にならない、
鳴り止んだら記憶に残らない、それでいて賑やかな音楽」
という発注が激増している。

―みんな音楽の存在を苦痛に思い始めているのだ。

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