多忙と廃墟 

今は「剥製にされた夏」を意識のメインに据えて生きていますが、
諸事雑事を含め、とても忙しいです。

今回白榊ケイさんが使用して下さる「夜明け前双つ」のジャケットをデザインしてもらうために、デザイナーの井原靖章さんに曲を聴いていただいたとき、井原さんが当時口にした印象の中に、
「フリードリッヒみたいなアルバムだな」
というようなものがありました。
当時、フリードリッヒという名前は非常に珍しく、神秘学の文献にいくつかの図像~それも殆どがモノクロ~が出ているだけの、殆ど知られていない画家でした。
やがて「C・D・フリードリッヒ」は日本でも有名になり、私が画集を入手したのは今年のはじめごろ。
「神の国は消え去った。それでも私は俗世に背を向け、廃墟となった神の国を見つめ続ける」
そういう意志を感じる絵画。
(当時ヨーロッパでは「心象風景画」というのは非常に珍しいものだったそうです)
画集を見ていて「こういう画も描いていたのか」と、いくばくかの違和感を伴う驚きをもって見たのは、
氷の海に座礁して廃墟となった難破船の絵。
何か、フリードリッヒの描く海と氷の廃船には、私の思う廃墟とは違うものがあります。
数年前の廃墟ブームも気にはしつつ、「自分が思う廃墟とは違う」と思っていました。
あまり語られませんが、実は「廃墟ブーム」というのは10年に1度くらいは周期的にやってくる、とてもポピュラーなものなのです。
70年代にも廃墟ブームがあり、80年代にも70年代を知らない廃墟ブームがあり、そうやって“前を知らない廃墟ブーム”は反復されてきました。
私は単純に、フリードリッヒの描く多くの廃墟同様、

“神の国”を去った唯物社会の私たちの心の奥底の廃墟を可視化したもの

としての廃墟に“本質”を見ており、それ以外は全て個人個人、時代時代に現象するバリエーションだと思っています。
ただ、何でしょう、心理学で言う「ヌミノース」というやつでしょうか、
「私が思う廃墟とはちょっとずれてる。でもここには私が意識化できていない何かがある」
という思いを感じることが増えて来ていたのです。
フリードリッヒの“氷の海で廃墟になった船”もそうですし、
個人的に好きな音楽家の方々の何人もが廃墟を撮ってブログに沢山載せていたり、
廃墟を名前と画像にした海外のバンドがmyspaceで“フレンド・リクエスト”してきたり。
今思えば、「私の知らない廃墟」がここ一年くらいで私の周りを取り囲むようになっていて、気にしてはいたのです。

全く急な話ですが、
来月、
金沢舞踏館が金沢大学で、
日本海のタンカー重油流出事故 に関する踊りを踊るそうで、
音楽の依頼が来ました。
通常ではとても考えられない無理なスケジュールなのですが、
受けるつもりです。

何かのシンクロニシティなんですが、もちろん何なのかは判りません。
今は「剥製にされた夏」に集中して、終わったら突貫で作ることになるでしょう。

そういうわけで、今はとりあえず、
剥製にされた夏」、よろしくお願いします。

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://mushiof.blog45.fc2.com/tb.php/93-2036b5bd