タロットカードお焚き上げ 

タロットカードを買ったのはいつだったろうか。

デザインは俗に言う「ブザンソン1JJ」。記憶を辿ると、小学校末期か、中学校初期だった。
どこで買ったか忘れたが、小中学生が近所から買って来たのだから、特に珍しい品物ではなかったろう。
最初に購入した当時の、高級な木のような、なんとも言えない不思議な香りをよく覚えている。
中学校2年か3年か忘れたが、文化祭であまりにも多くの人々を占って、
独特なめまいに陥って倒れた時の、目の前が深いオレンジ色のようになってみるみる昏くなっていく質感も、よく覚えている。

高校になっても、大学になっても、社会人になっても、
使い慣れたそのタロットをひたすら使い続けた。
自分を占うことは禁じている人も多いようだが、
私には自分の人生の諸問題も、タロットを大いに参考にしていた時期がある。

30代を過ぎたあたりだったか、徐々にタロットカードを使わなくなっていった。
それについて、一応後付けの理由は並べることは出来る。
引っ越しに伴い、女友達に喫茶店に呼び出されて恋占いをさせられるようなことがめっきり減ったこと。
関心が神秘学・心理学に移ったこと。
尊敬している神秘学者の先生から、
「水晶玉で占いが出来る人は、丸くて白い紙を目の前に置いても出来るのではないか」
といった言葉を伺ったこと。つまり、読み手の能力ほどには、媒体は重要ではないこと。
色々理由を並べることは出来るが、要するに「自然にやらなくなった」というのが一番現実に近い。

40代に入ったあたりで、時折、「もうタロット捨てようかな」と思うようになっていた。
ところが、なかなか踏ん切りがつかない。
12~13歳ごろからひたすら、切って、並べて、読み解いてきたカードだ。
約30年間、念と生命を込めてきたカードである。
もういいや、捨てよう、と手にとっても、
手に取った途端に、吸い付くように、たちどころに「自分の体と一体化してしまう」。
自分の手の延長上にそのまま生命を持ったタロットカードがあるのが、ありありと実感される。
これほどまでに念と生命をすり込んだカードを、
燃えるゴミで捨てるのもなんだか忍びない。
じゃあどこかで“お焚き上げ”でもしてもらうか、と思っても、
いつも通りがかる神社の年末年始を見ると、
「お焚き上げは当神社のものだけ」と張り紙が出ている。
これだけ念と生命(要するに四大)を込めた、
シャマニズムとカバラをごちゃ混ぜにして煮しめたような物を、
教会に持ち込むのもなんだか違う気がする。
さてどうしたものか、と迷う状態が、10年ほど続いたろうか。

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今年に入って、一念発起し、
「なんでもお焚き上げしてくれるお寺」をインターネットで見つけ、
電車とタクシーを乗り継いで、行ってきた。
そのお寺の名前は申し上げられないが、
行ってみてまず思ったのは、
「こんなに俗で大丈夫なのかここ」ということ。
明らかに「仏教のお寺」なのだが、
大きな看板と大きな駐車場を抜けて入ると、
中は鳥居だらけで、
小さな鳥居の奥には様々なものが祀られている。
お祭りをやっているビデオを流した液晶テレビが祀られていたり、
ゆるキャラらしき着ぐるみが祀られていたり。
そういう鳥居だらけのそのお寺全体に、
拡声器で大音量の雅楽が流れている。

変なとこ来ちゃったかな、とかなり戸惑うが、
ホームページで謳っていた「なんでもお焚き上げ・物品供養いたします」という説明、
ペットも火葬致します、時計のような金属の遺品もお焚き上げしますと、
写真で立派な炉を公開していたこと、
忙しそうにてきぱきと働く作務衣の皆さんなど、
とにかく遺品やペットなど、通常の神社仏閣が受け付けない供養を
受け付けることに強い経営的意志を感じたこと、
そういう場所だからこそ
「30年念を込め、10年捨てるのを迷ったタロットカード」
などという切実かつ珍奇な物品を受け付けてくれる筈なのだ、
と思い直し、受付に行く。
申込用紙を見てみると、項目に「タロットカード」はないので、
「その他」に印をつけて、受付に渡す。
受付の女性にタロットを入れた封筒を渡すと、
少し戸惑って「あの、中はどのような」と訊いてくる。
「タロットカードです」と言うと、女性達で相談し、
「その他」として受け付けてくれることになる。
私はてっきり、その場でお焚き上げするところを見られると思っていたのだが、
今日はやりません、という。
「いつ、どのようにお焚き上げして下さるのですか」と訊くと、
2~3日中に、読経と共に、確実にお焚き上げ致します、と言う。
ここまで来た以上、それを信じるしかあるまい。

タロットカードを渡し、料金を支払い、
拝殿で指定されたマントラのような口上を述べて拝み、
帰りはバスで帰ってきた。

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2~3日経った夕暮れ時、
道を歩いていた際に自分の身に起きたことを、
言語化するのは非常に難しい。
どこか比喩めいた描写にせざるを得ないし、
こういった経験のない人に正確に伝わるかどうか、わからない。
そして、「私も同じ体験をした」という人が現れたとしても、
その人が本当に私と同じ体験をしているのかも、
私にはわからない。

道を歩いていたとき、私は突然、
「タロットカードが自分を取り囲む」
とでも言うような体験をした。

強いてたとえるならば、
親しい人や親しかった動物が世を去った後、
唐突に非常にありありと“そこにいる”と実感するような、
親しみ深い体験。あれに近い。
が、そういう時のような「相手の親密な感情が流れてくるような感覚」はない。
あくまでも、ついこの間まで、ひとたび手に持てばたちどころに
「自分の一部」となるまでに念と生命をすり込んだタロットカードが、
私を取り囲んで、ありありと、先方の感情なしに、「在る」。
自分の延長であり、自分の外界への延長であると同時に、
外界からの自分に対する延長というか、ある種の贈り物であるかのように、「在る」。
(このへんは意味が取りづらいと自分でも思う。言語化が難しい。)

私はこの体験をしながら、
ああ、確かに今しがた、
タロットカードは“適切に”炎と共に地上での形を解消し、
そして今、自分の周りに適切に「在って」くれているのだ、
私の行動は、あれで正しかったのだ、という確信を得た。

とりわけ、ひときわ大きく見えたタロットカードが、
9番「隠者」であったことは、
私にとって意義深いことであった。
内面であり、同時に物質でもあった理念が、
いまや物質であることをやめ、
外界から私を囲んでいる。
そのひときわ大きいものが、「老賢者」。

この深い意味の実感、あるいは実感の意味を、
私は今でも言語化出来ずにいる。

そもそも、ここから先は言語化不可能な領域なのだろう。

そして人生は続く。
追記/補足を読む

風景や自然と魂の一体化、及びその拒否について 

子供の頃のように、何気ない風景に心を奪われることが増えてきた。

それは、1~2年ほど前から、少しずつ始まっていた。
長距離列車の中で、車窓から見える夕暮れの緑や曇り空と、
自分の魂が一体化しようとしてしまう。
私は、(くそっ!まだだっ!)と自らを緊張させ、抗う。

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風景や自然と魂の一体化は、
子供の頃の私にとって、自明のことであった。

しかし、私以外の殆どの人にとって、
風景や自然と魂の一体化は、
看過できない“何か”であった。

小学生の頃だったか、
私が風景や自然と魂を一体化させて自転車を漕いでいると、
すれ違いざまに見知らぬ中学生が「ワッ!」と脅かしてくる。
そして去り際にケタケタ笑っている。
もちろん通行の邪魔になるような漕ぎ方をしているわけでもないし、
ぼーっとした顔をしてる(かもしれない)からと言って、
見知らぬ人に突然脅かされる理由になるとも思えない。

子供時代の私は風景や自然と魂が一体化することを
自力で止めることができなかったし、
どういうわけだか、それが起きている事を、人々は許すことが出来なかった。
私がジャングルジムの上で空と一体化したとき、
周囲の人間が突然私を蹴り落とし始めたことは、
ジャングルジム・フラッシュバック」で書いた。
今にして思えば、私が受けたいじめや迫害のかなりの部分は、
風景や自然と魂が一体化する現象が原因だったような気もしてくる。
ジャングルジムのてっぺんでも迫害が起こるわけだから、
私が風景や自然と魂を一体化させているときに、
特別いじめたくなるような馬鹿面をしているわけでもなかろう。
ジャングルジムのてっぺんで仰向けに寝ていれば、
下からは顔が見えない。そのジャングルジムは何ヶ月見ても、
誰も遊んでいないジャングルジムであったので、
誰かの遊びの邪魔になったわけでもない。
つまり、私以外の殆どの人々が生来体得していて、
私だけが生来持っていない“何か”によって、私は迫害を受けている。
それは何なのか。

親に相談してもさっぱり要領を得なかったし、
教師がいじめの現場を見つけても、
一応はいじめている側を叱りつつも、
「いじめられる側に、ほんとうに、原因は、ないのかな?」
と謎かけをして、何が起きているのかは教えてくれなかった。

私の魂が風景や自然と魂が一体化していることを、
私以外の人はどうやって見抜くのか。
そしてどのような理由・衝動を持って、それを迫害するのか。
それは、当時の私には、全く解らなかった。今でも殆ど解らない。

私が大人になるプロセスは、
私が自らの魂を、風景や自然と切り離すプロセスでもあった。
間断なく外界を、爆発的な意志によって否定すること。
外界に心を開かないこと。全てを憎しみで満たすこと。
そういう努力によって、私は大人になってきた。

その、意志によって閉じていた外界が、
もはや初老と呼んでもいいこの歳になって、
再び流入し始めている。
ライフサイクルが閉じ始めているのだろう。

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私は5月、6月の緑をとても愛している。
緑の中を歩いている途中、とても静かな風が吹き、
緑がわずかにざわめき、
心が空を飛び始める。
一応、周囲を見渡す。咎める通行人もいない。
まあたまにはいいだろう、いい歳になったし、周囲も安全だ、と、
意識が浮くに任せてみる。

なにやら上空が騒がしい。
最初のうちは、ああ、カラスが鳴いているのだな、くらいに思っていたが、
普段聞くカラスの鳴き声と、少し違う。
そのカラスに目を向けると、どうも私に対して大声で鳴いている。
巣でもあったか、大丈夫だよ、とそのまま歩いても、
100メートル近く追いかけてきて大声で鳴き続け、
先回りして私の行く道に木の枝を折ってわざと落としたりしている。
これはひょっとしてカラスに求愛でもされてるのか、とも思ったが、
家に戻って調べてみたらやはり威嚇で、
カラスは自分の巣の縄張りを半径20~100メートル持っており、
巣に近づいた人間、とりわけ顔を上げている人間を敵と見なし、
木の枝を落とすなどして威嚇する、のだそうだ。

なるほど。カラスに迫害される理由はわかった。
私が魂を風景や自然と一体化させているとき、
私の顔はやや上向きになる。
それがカラスには、どうしても許せない。

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先日、かなりまとまった雨が降った。
いつも散歩がてら通る道で、思わず足を止める。
雨に打たれる雑草があまりにも美しくて、
心が飛びそうになる。
ここで心を抗わせ、ふむ、ブログのネタにでもなるかな、
などと自分に言い聞かせ、スマートフォンで写真を撮ったりして、
植物との一体化に抗う。半分ぐらい心が開いた状態で、踏みとどまる。



子供の頃とは違い、かなり早い段階で刺さるような気配を感じる。
気配を感じる方角を見ると、傘を差した女性である。
10メートルほど先で、私の方を向いて、
傘で自分の顔を隠して、立ち止まっている。
私はやや大げさにスマホをかざし、雑草を見てるんです、という“気配”を出す。
少しずつ、傘で顔を隠した女性が近づいてくる気配がする。
そこに、反対側から男性が通りがかる。
その男性が私の背後を通り過ぎる瞬間を見計らって、
その女性はその男性と同時に私の背後を通り過ぎていった。

なるほど。
普通の人間は道端の雑草に感動したりしない。
雑草をスマホで撮影したりもしない。
そんな「人間がする筈のない行動」をしているので、
不審人物として女性から警戒されたのであろう。
たとえ昼間であっても、少なくともその女性にとって、
雑草に見入って雑草の写真を撮っている人物は、
自らの想像力を超えた異様な人間であった、ということだろう。
だから別の通行人と同時に通り過ぎなければ、
我が身に危険が及ぶ、と考えた。

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こうして考えてみると、
私に生来欠けているのは、
何らかの“野生”ではなかったか、と思うこともある。
風景や自然が、私と、私以外の人では、どうやら見え方が違う。
カラスも、大抵の人間も、そもそも雑草に感動などしない。

私は、じつは、旅行先ではあまり風景や自然に感動しない。
知らない場所にいる、という野性的な緊張感が現れ、
魂が風景や自然と一体化することは、殆どない。

私には、何らかの野生、何らかの動物性が、
生来、大幅に欠落しているらしい。
その何らかの野生が人並みに、充分にあれば、
人は日常の風景や雑草に感動したり、
それと一体化したりしないのだ。

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参禅後、禅師のお宅の猫を撫でながら考える。
誰もが持っている自明の動物性、自明の野生とは、
どのようなものかと。

私はこの猫と、「型」を使って仲良くなった。
猫にとって重要なのは自己防衛本能であり、
好かれるというより、まず危険がないことを知らしめることが肝要で、
それには「目が合ったら目をゆっくりとまばたきして攻撃心がないことを知らせる」
「攻撃しない事を示すためにゆっくりと背中を向ける」
といった知識を数年間実践していたら、
最初は走って逃げていた猫がゆっくりと逃げるように、
やがて逃げないように、そしてこちらがまばたきすると仰向けになるように、
最終的に「撫でろ」と言わんばかりに体を寄せてきてくれるようになった。

生来持っていない物、生涯持つことが出来ない性質を、
知識と経験によって補うことは、ある程度可能というわけだ。

「元型ドローン1-10」視覚イメージのHow 

そもそも何を実物と呼び何を複製と呼ぶのか、
考え出したら切りがありません。
大理石で彫刻を作ったら、
大理石が実物なのか、彫った形が実物なのか。
彫った形が実物ならば、それを3Dプリンターで再現すれば、
それは全く同じ価値を持つのか。

録音された音楽は生演奏の模造品なのか。
コンピューターで音楽を作ったら嘘か。それを録音したら複製品か。
ならばCDに感動したら、その感動は錯覚なのか。

こういう話はいくらでも続けることができるし、
厳密な答えだって出やしません。
頭のいい人が出した答えを読んでみても、
ずいぶんと難しい文章になってたり、
作り手にはそれほど参考にはならなかったりするものです。

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和紙を数種類、洋紙を数種類、
いくつかの絵の具、墨、水墨画用の青墨を用意し、
色々な方法で、円相を作っていきました。
(筆を使ったとは限りません。色々と試行錯誤しました。)
どれぐらいの数、円相を作ったのかは、数えていません。
後で混乱しないよう、入念に作っていったので、
百も作っていないと思います。数十といったところでしょうか。
その中から、
「これが元型ドローン1-10のジャケットイメージになりうる」
という円相を選び出し、スキャナーで取り込み、
コンピューターでイメージを延々と追い込んでいきます。
そうして、元型ドローン1-10のジャケットというか、
イメージ画像が出来上がります。


これの高解像度版が、音楽ファイルに埋め込まれたイメージになります。

この出来上がった画像を、コンピューターで、白黒にします。
陰影を完全に消し去り、左右を逆にします。

a_drone_gyaku1.jpg

これを小さくプリントアウトし、
篆刻(てんこく)用の印材、つまり印鑑を彫る石に貼り付け、
それをガイドに自力で石を彫っていきます。
(これについては制作中にブログに書きました
うまくいかず何度もやり直しましたが、
何とか買い込んだ石が尽きる前に、彫り終えます。
掘り終わったら、貼ってあった紙を洗い落として、印鑑完成。

a_drone110_inkan1.jpg

朱肉をいくつか試し、
結局水墨画や書道で落款を押す時に使う、
印泥(いんでい)にします。
一つ一つ、自分で集中して押していきます。

a_drone110_syuugou1.jpg

ここまで来るのに腱鞘炎との戦いとか、いろいろありました。

(紙をどうやって作ったか、文字部分をどうやって作ったかは、割愛します。)

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さて、このように、
イメージ→和紙と墨で具現化→スキャン→PC加工で具現化→完成
完成イメージ→再加工して出力→石に自力で転写→紙に捺印して具現化
という流れで出来上がった円相ですが、
これらは、実物でしょうか。それとも複製・模造品でしょうか。

いや答えて欲しいわけではなく、
思考を挑発するつもりもないんですが。

名状しがたいものの顕現を実現するために、
私は、日々、思考しています。
WhyやWhatは、大抵“あらかじめ答えがある”ことが多いものです。
(WhyやWhatは、言語化が難しいだけ。)
難しいのは、How
Howの思考に、かなりのエネルギーを使うのです。

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元型ドローン1-10

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「沈黙 -サイレンス-」所感 

少し前、沈黙 -サイレンス-という映画を観ました。
マーチン・スコセッシ監督が、遠藤周作の小説「沈黙」を映画化しようとしている、
という話を聞いてから、もう何年もの間、
・あの原作がうまく映画化されなかったらどうしようという不安
・あの残酷な原作がうまく映画化されたらどうしようという期待と不安
その両方に苛まれてきました。

実際に観てみたら、あの残酷な原作が、
じつにうまく映画化されていました。
私はこの映画を、傑作だと思います。

本当にいい映画というのは、
観た後に自分が少し違う人間になったように感じるものです。
いい映画というのは、人生経験のようなものですから。

そして、深い人生経験をした後と同じように、
軽々しくその経験を語るものでもない、と感じています。
そもそも、私はこの映画を観終わった後、殆ど言葉を失ってしまい、
意識をどうにか平常運転に戻すのに、五日ほどかかってしまいました。
「あれ面白いぞー」と気軽に吹聴するような作品でもありません。

ですから、そのまま、ブログなんかに書かず、
それこそ“沈黙”していよう、と思っていたのです。

が、あちこちでレビューのようなものを見て回ると、
観た方の多くが、歴史としての側面、
宗教としての側面、東西文化としての側面、
そして国家や政治の側面から、
この映画を批評しておられます。

もちろん、そういう側面も大事です。
それらの側面から観ても、充分な説得力を持つよう、
入念に作られています。

ですが、この映画の本質を、
私としては別の所に見ていたので、
そのことをちょっと書いてみます。

(以下、多少のネタバレがあります)

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かつては、人間存在の不可侵なる部分というのは、
殆どの人にとって、特定の宗教であったのかもしれません。
言い換えれば、ある程度、共有できたのかもしれません。

しかし、現代に於いては、自分の全存在よりも大切なもの、
絶対に踏んではならないもの、踏むことができないものは、
私たち一人ひとりが、自分の奥深くに、
個別に持っているのではないでしょうか。
息を殺して隠し抜き、
時として、信頼できる人にだけ、命を賭けて、
そっと、開示したりしていないでしょうか。

そして、その存在に気付かず、
あるいは気付いてもそれがそれほど重大なものだと気付かず、
(あるいは半ば気付きつつ、)
それを踏むように仕組んではいないでしょうか。

そして、そうやってかけがえの無いものを、
踏まれてしまった人、踏まされてしまった人は、
自分以外の人が隠し持っている、
その人の深奥にあるかけがえの無いものを、
何とかして探し出して、
自分で踏みつけよう、あるいは本人に踏ませようと、
暗い情熱を燃やして人生を生きてはいないでしょうか。

内なる神殿を壊すこと。
内なる神殿を壊されること。

私は、この映画を、本質的には、
現代の私たちの問題として観ました。

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出演なさっている役者さんのインタビューをYoutubeで見ていたら、
とある役者さんが「これは使われないだろうけど」と前置きして、
「踏み絵は心のままに踏みたければ踏めばいい」としつつ、
原発をはじめとする時の政府の政策に対する強い批判を口にしておられました。

ところが、さらにネットを見回ると、
その政府の最高責任者、要するに現在の総理大臣が、
SPを引き連れ、この「沈黙-サイレンス-」を観たことが伺えます。
何件も目撃談が出てきます。

昨今の激務の中、SPをつれてわざわざ観に行ったということは、
これを書いている時点での現・総理大臣もまた、
おそらくは原作を読んでおり、
映画化されたのを知り、多忙の合間を縫って時間を作り、
強い意志で観に行ったという事だと推測します。

特定の誰かを批判したり擁護したりするつもりはありませんが、
その役者さんが批判なさっている、
原発の問題、弱者の問題などは、
今の総理大臣は、全部熟知なさっているのではないかと思うのです。
いま原発を止めたらどうなるか。止めなかったらどうなるか。
原発輸出を取りやめたら、それに関わる人々や、そのご家族はどうなるか。
原発輸出を取りやめたら、地球環境はどうなるのか。
(そのとき他国の原発輸出はどうなるか。その価格と信頼性は。)
経済が止まったら弱者はどうなるのか。
そういうことを、批判なさっているその役者さんより広範囲に知悉しおり、
その上で政治をやっておられるのではないかと思うのです。

ですから、もしもその役者さんの批判を、
今の総理大臣が耳にしたとしても、
「はい。私、踏み絵、踏んでます。」と心の中で思うのではないでしょうか。
役者さんが自らの良心・信念に従って、
「踏み絵は踏んだらいい」と言いながら、言葉で総理を踏みつける。
総理はそれをわかりきった上で、政策という踏み絵を踏む。
その政策は誰かを救い、誰かを踏みつける。
踏まれた人は、また別の誰かを踏むのかもしれません。

どこか途方もない遠く、あるいは思いがけないほど近いどこかで、
「踏むがよい。そのために私は生まれてきた。」
と、声がするような気がするのは、私だけでしょうか。

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演技や撮影についての賛辞は、ネット上にも多くありますので、
私からは、「音」への賛辞を送りたいと思います。

今の時代に、ここまでのサウンドスケープの録音は、
真に大変だったことでしょう。
Youtubeのメイキングを見ると、要所要所で後ろに
救急車らしきサイレンが入ったりしています。
クリアなサウンドスケープを長時間録ることは、
現代では不可能に近い難行のはずです。
サイレン、飛行機、バイクの音が数分経たずに入ってしまう。
一体どれほどの技術と忍耐が必要であったろうか、と思います。

そして、その繊細極まりないミキシング。
とりわけ、音の鳴り止み方の巧さ。

真に残酷な瞬間、人間の心の中で、音は、しばしば、鳴り止むのです。

ドローンと信頼 

まず初めに検索でこのページに来られた方のために申し上げておきますと、
以下に書かれている「ドローン」というのは、「持続音」「通奏低音」といった、
音楽的な意味合いです。空を飛ぶドローンのことではありません。

また以下は、特定の楽曲や特定の音楽家を批判するものではありません。

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まず、何らかのサウンドソフトをインストールします。
「生成」とか「シンセサイズ」といった項目をメニューから選びます。
そうすると、「波形」の選択がだいたいプルダウンメニューから出てきます。
で、そこから波形を選び、周波数を入力し、生成時間を入力します。
ここで仮に、「100Hzの正弦波を10分生成する」、と入力します。
これだけで「100Hzの正弦波が10分鳴り続けているドローン」ができます。
これができ上がるのに、正味、数秒しかかかりません。
10分間のドローンを作るのも、1000分間のドローンを作るのも、
このやり方だと、殆ど時間の違いはありません。
(生成時間に上限を設けているソフトもありますが、
ファイル末尾に同じ工程で挿入していけば、いくらでも時間は伸ばせます。)

私は上記のような「作品」を作ったことがありませんし、
こういう事をやった人がいるかどうかも知りませんが、
要するに、
「ドローンはいくらでも手を抜ける」
という事実があります。
これは別にドローンでなくても、
ノイズでもテクノでも、ある種の美術であっても、
事情は同じと言えば同じです。
受け手の目や耳にゆだねられる。

ですが、ちょっとドローンだけ事情が違うことがあって、
それは、デジタル技術を使えばどんな時間でも作り出せるということです。
1秒なのか、20時間なのかは、数値入力だけで決めることができる。

ドローンの場合、
「これはちゃんとしたものだ」とか、「これは駄目なんじゃないか」とか、
判断するのに、かなりの時間がかかります。
誠実に判断するのなら、(あたりまえですが)全時間通して聴き切らないと、
そもそも1回聴いたことにすらならない。

1回通して聴いてみて、じつは適当に数値入力してそれっぽくしてるだけでした、
なんてことは、4分間のポップスよりも、ずっと“あってはならないこと”だと思うのです。

言葉で飾っておくことだってできます。
「100Hzの正弦波が100分続く」のでしたら、

正弦波-サイン・ウェイブ。それは”純音”とも呼ばれ、
あらゆる音の基本。これ以上分割することのできない、純粋な音。
その振動が1秒に100回繰り返されることによって、音として響き渡り、
それが100分間続きます。
つまり、あなたは、純粋な振動を、60万回体験することになるのです。


私は宣伝文句がへたなのでうまい文章ではありませんが、このような、
「嘘ではないけど全然たいしたことはない、
でも専門外の人が読んだらなんだかすごそうな気がしてくる文章」
を添えとけば、なんとなく格好はつきます。

何でも最終的に受け手にゆだねられるのは同じなんですが、
ドローンは他の音楽より聴くのに時間がかかり、
他の音楽より思考で捉えられる要素が少ないので、
信頼って大事だな、と思うのであります。

つまらない話で失礼しました。
3/19(日)のライブ、「元型ドローンVol.13」の準備を進めます。