リバーブとしての時代と、その外側からの差し込み 

猛烈な情報量で、何もかもが過去と複雑に関係している。
何もかも繋がりながら、何もかも砕けていく。
何もかも混じり合いながら、離ればなれになって、減衰していく。
そう考えると、21世紀というのは、19~20世紀の、
巨大なリバーブ(残響)のような気もしてきます。

一方、今、自分の身に起きていることが、
過去の延長線上にはない、
という実感も、体験することがあります。
これは確かに物語ではあるけれど、
既存のいかなる文脈にも属していない、という体験。
それを体験している最中は、
これは確かに過去の延長線上にないものだ、
という実感があるのですが、
終わってみると、なぜそれが起きたのか、
そしてなぜそれが終わったのか、
それはやはり、過去から未来への、
通常の時間軸に生じていたのであって、
それを自分が見通せなかっただけではないのか、
などと思いたくなってきてしまいます。
それほどまでに、通常の思考では捉えづらい“差し込み”。

歴史は衰退の相を露わにしていますが、
そんな時空にあっても、
“超歴史的なるもの”は差し込んでくるのです。
当然といえば当然ですが、
不思議といえば不思議なものですね。
追記/補足を読む

存在をやめることはできない 

昔の話をする。

1980年代の当時、すでにモノクロ映画は殆ど作られなくなっていた。
そして、映画よりテレビが、テレビよりビデオが、
ビデオでもビデオアートが、時代の最先端だったように思う。
そんな時代状況の中、私は映画の学校での勉強を始めた。

まず非常に驚いたのは、先生方が口になさる、
「映画に色彩は必要か」
という議論であった。
演劇の転用ではない、映画独自の表現技法というのは、
カラーフィルムが普及する前にすでに出来上がっている。
ならば何故、わざわざ色彩を使用するのか、
モノクロの方が映画の本質に迫れるのではないか、という議論が、
映画界ではまだ終わっていない、といったお話であった。

実際、学んでみれば色彩なしでも映画は成立するといえば成立するし、
敬愛するA・タルコフスキー監督のインタビューを読む機会に恵まれても、
インタビュアーが「え?ソラリスはカラーで撮るの?」と驚いたりしていて、
色彩というものを、当時の映画界全体が、いわば“副次的”に捉えていることはわかった。
(「惑星ソラリス」は70年代の映画ですが、私はそのインタビューを80年代に読みました。)

しかし、現実的にモノクロ映画の新作は殆ど存在しておらず、
モノクロ映画といえば過去の作品を「名画座」という安い映画館で観る時代だったので、
実際の生活実感と、「色彩は本来ならば映画に必要ない」という教えの齟齬に、
ずいぶんと悩み、苦労してその価値観を体に染みこませた記憶がある。

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「映画に音は必要か」という議論が存在すると知ったとき、
私は当初、それを無視することに決めた。
実際、同学年の学生に、
「音がなくても映画は成立する。カメラがなくては映画は成立しない。どうだ」
と得意げに演説する者が現れれば、その彼は総スカンを食らっていたし、
先生方も「サイレント映画からトーキー映画に移行する時代、そういう議論があった」
程度で、それほど深くはお話にならなかったと記憶している。

要するに、サイレント映画にも名作はあるのだから、
セリフを録音したり、効果音を入れたり、音楽を鳴らしたりするのは、
映画にとっては無用な付け足しなのではないか、
そういう議論が、かつてあったらしい。
実習で初年度に実際に自分で撮る映画は、
8mmフィルムによるサイレント映画であったが、
それは当時8mmフィルムに音を録音し、
それを編集するのが至難の業だったからだと記憶している。
(ビデオはまだフィルム以上に高価であった。)

つまり映画の作り方として、まずサイレントで映画の基本を学び、
音については追々学んでいくことにはなるが、
学生にはそれしか実質的に方法がないからであって、
現実には、セリフも効果音も音楽もない映画はもうありえない、
という感じに受け止めていた。

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ただ、学んでいくうちに身に染みて解ったのは、
カメラに比べて、マイクロフォンの立場は非常に低い、ということ。
カメラマンが「このアングルから撮る」と言えば、そこから撮る。
音声が「この位置から録音したいからカメラの位置を変えろ」、とは言えない。
これはまあ、当たり前といえば、当たり前である。
実際、B級映画などで、マイク、マイクの棹、それらの影が
カメラに映り込んでいるシーンを、私たち学生も他人事のように笑って眺めていたし、
徒弟の厳しさや職種の序列も理解した(つもりだった)ので、
まあ、粉骨砕身気配を消して、全身全霊隠れに隠れてマイクを向ければ、
何とかなるだろう、ぐらいに思っていた。

ただ、撮影実習などで、普段は友人である同学年のカメラマンに対して、
「映ってます?」とマイクが映っているかどうか声をかけた際、
見ていた先生が、
「それ、ほんとうの現場に行ったら、殴られてもクビになってもおかしくないからね。」
と小さな声で仰ったことは、強く印象に残っている。
メインのカメラマンに、音声ごときが声をかけるなどという、
そんな無礼な行為というのは、まあ現場にもよるだろうけど、
古いタイプの人々が働いてる現場だったら、
殴られたり、その場でクビになったりしてもおかしくないのだ、と。

音声からは画角なんか解らない。当時もちろんビデオのようにモニターがあるわけでもない。
だからカメラのショットに於けるマイクの最適位置は、
口頭で確認するしかない筈なのだが、
それでも無礼に当たるらしい、ということ。
そこで先生に食ってかかってもしょうがない。先生は現場の事を教えて下さっている。
第一、撮影助手や助監督の役割をしている学生達も、先生方から、
「基本的に君たちはファインダーをのぞけない。
ファインダーをのぞけるのは、カメラマンだけ。
現場によっては監督も撮影前にのぞくケースもあるけれど、
監督すら頻繁にはのぞけないものなんだからね」
と教えておられたので、音声の立場がどれほど低いかは自ずと解る。
仕方ない。粉骨砕身、全身全霊、気配を消して、いいマイクポジションを探すのみだ。

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そんな中、実際に現場で今でも映画のカメラをやっておられる方が、
講師として授業に来られることになった。
先生方も映画の現場で鍛えてこられた方々だったが、
今まさに現場でやっておられるカメラマンさんが、
我々学生達の現場を見て下さるという。
先生方は、緊張した面持ちで、
「決して失礼のないように」、と私たちに仰った。

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授業というか、実習の前後関係は、もう忘れてしまった。
非常に緊張して、全身全霊気配を消して、マイクを向けていたように思う。
非常に穏やかなその“現役”のカメラマンの先生が、私たち音声班のことを、
「トーキーさん」
と呼んだのだ。
「トーキーさんねぇ、こういう場合はこっち側から録って。」
「トーキーさん、もっと後ろね。」

―今、この歳になって思い返せば、
ただ単に習慣的な用語だったとも思えるし、
当時のその先生の年代と当時の時代を逆算してみると、
その先生が青春を送られたのは20世紀中盤、或いは前半であろうから、
その先生に基本を叩き込んだ、そのまた先生に当たる方々が、
音声を「トーキー」と呼んでいた事ぐらいは、
なんとなく想像がつく。

だが、当時、全身に緊張をみなぎらせ、
全身全霊で「カメラさんに話しかけるのは失礼に当たる」と教わり、
全身全霊で気配を消していた学生の私としては、
この「トーキーさん」という呼び方を、
「君達は本当はいらない人間なのだ」
という意味に受け取った。

音声を録るためにはマイクを向けなければならない。
そのマイクの位置は、決してカメラに影響を与えてはならない。
そのマイクも、そのマイクの棹も、その腕も、その全存在も、その影も、
どんなことがあっても映り込んではならない。
自分が映っているかどうか、自分で確かめる方法は、ない。
ファインダーをのぞくことも、映っているかどうか尋ねることも、
決してやってはならない。
その上で、どんなことがあっても、
「自分は本来ならば、そこに必要ではない人間なのだ。
音なんかなくても、映画は存在しうるのだから。
自分たちは本来、必要とされていない仕事をやらせてもらっているのだ、
という自覚を、決して忘れないように。
その上で、本来なら必要のない、そのマイクを向けるように。」
そういう教えに響いた。

とても優しく自然な、しかし決然とした、
「トーキーさん。」
という呼び声は、雷鳴のように私の全存在に響き渡った。

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昭和の昔の話なので、記憶に若干、曖昧な点もある。
第一、この大学生時代は、
私の人生にとって、その前後が信じられないくらい、
華やいだ時代であった。
今になって、この華やいだ時代に受けた数少ないこの衝撃を思い返すに、
結局、人間というのは、
存在することをやめることはできない、ということだ。

全身全霊、気配を消すことはできる。
だが仮に、唯物的な立場に立ったっとしても、
その場で死んだって、死体ぐらいは残るはずだ。
影に隠れることはできる。
頭を下げることも、まあできる。
気配を殺すことだって、できる。
場合によっては、死ぬことだって、できる、かもしれない。
だが、存在すること自体を、やめることは、できない。

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それから、本当に色々な経験をした。

私の人生における、極限の体験というのは、しばしば、
「存在することをやめろ」という言葉に対する反応だったような気もしてくる。

過酷な労働の帰り道、電車の中で、立っていることはおろか、
座席に座っていることすらできず、かといって横になるわけにもいかず、
座席に座ったまま上体を前に倒し、
自分の膝に突っ伏して床に頽れないよう耐えている私に向かって、
「あんなのはねえ!死ねっていうの!
戦争中はあんなのはみんな死んでたんだぁ!」

と私を指さしながらはしゃぎつつ若い女性をナンパしてる老人。

デジタル時代に入って、
著作権も肖像権も決して侵害しない画像の素材を撮るために、
ひたすらコンクリートの地面の文様を撮影している最中に駆け寄ってきて、
「あなた!私のこと撮ってるでしょ!
人間には肖像権があるの!」
と叫びはじめ、
言葉で説明しても、デジタルカメラの中身をあけすけに見せても、
「しょうぞうけん!しょうぞうけん!人間には肖像権があるのぉっ!」
と叫び続けた中年女性。

いつだって、極限まで切り詰めた自分の全存在に対して、
それ以下を高らかに要求する声に対する、
「存在することを、やめることは、できない。」
という、爆発のような思いが、私を貫いてきたような気がする。
(それよりも遙かに過酷な経験をしているが、それについては割愛する。)

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私もずいぶんと歳を取った。
だが、この先、まだ何やら、色々と経験をしなければならなさそうな気がする。
十代の様々な経験の上に、上記のような、
「カメラに写ってはならない、存在を消さなければならない」という“しつけ”が加わり、
もう数十年に亘って、本能的にカメラを避けるように生きてきたが、
時代は変わり、一日中自分を撮影して不特定多数に見てもらい続ける人々すら、
存在して当然という時代空気になった。

そして、記念撮影を強要されることも増えてきた。
撮影する側は、もはや、
「どんなことがあってもカメラに写ってはならない」というしつけを受けて、
そのままこの歳まで生きてる人間がいるとは思わないらしい。
とりあえず、おそらくは20代まで苦しんだ喘息とも関係している、
ストレスによって分泌されているであろう「ヒスタミン」によるものだろうが、
記念撮影を受けるとしばしば蕁麻疹が出て、
両腕が真っ赤に腫れ上がる。

時代が時代だ。少しずつ、カメラに「曝される」ことに慣れていかなければ、
と思い始めている。
喘息で言う「減感作」のようなもの。
育った環境や人生経験、そして受けたしつけや教育が、
「有色人種は劣っている」とか「女性は劣っている」でなくてよかった。
そういう教育を受けた人々が苦しみながら人生後半に時代の変化に対応するように、
私は非常にゆっくりと、少しずつ、まさに「減感作療法」のように、
カメラに映る、ということに慣れていかなければならないらしい。

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カメラを向けられたら、黙ってカメラに写って存在を示すことが、
「存在をやめることはできない」という表明になるのか、
「カメラは苦手なのです」と率直に意思表示してカメラに写らないことが、
「存在をやめることはできない」という表明になるのか、
かなり考えても、解らない。

いずれにせよ、誰が何と言おうと、
「存在をやめることはできない」、ということだ。

「コラ影が映ってんぞ!」、と怒鳴られようが、
「ハーイ笑ってー!あれあれ~?どうして笑わないのかなぁ~?」とカメラを向けられようが、
どっちにしたって、
存在をやめることは、できません。

思考の断片:2017前半 

色彩というのは、あれは光が苦しんでいる姿なのだ、という考えと、
私たちはなぜ、この世で目覚めれば目覚めるほど、
分かり合えなくなっていくのか、という考えは、
どこかで必ず繋がっている。

一なるものが離散し、ゆくゆくは再統合される。
再統合が帰還ではない、というのはようやく実感できるようになってきたが、
再統合後も、孤独は果てしなく深まっていくものなのかもしれない。
(あるいは、少し、違うのかもしれない)

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タロットカードの「隠者」が持つランプ、
ゲーテ「緑の姫」に出てくるランプの老人、
あのランプは、何だろう。
新約聖書の「荒野の誘惑」で、
イエスが悪魔に対して「書いてある」と反論している、
あの「書いてある何か」と、関係があるのだろうか。
或いは、この胸に灯った、信じられないほど弱々しい、
この頼りない光と、何か関係があるのだろうか。

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奪われたものは計り知れないが、
いただきものも計り知れない人生だ。
そう思うことが多くなってきた。

奪われたものと、贈られたものとの間には、
何か、関係があるのだろうか。
(奪われたものを取り返そうとしたら、
奪われたものとの関係を到底見通すことができない、
あまたの贈り物もまた、失われてしまうのだろうか。)


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近年私をしばしば襲う、
「ああ、そうであったのか」
という悲しみを伴う判断は、
錬金術で言う「赤化」に近い何かだろう、と感じる。
この判断は、ある種の、非常に低次の「悟り」なのか、
或いは「今生では悟れなかったのだ」、という悟りなのか。

ブレンターノの言う意味での「判断」、
少なくともその端緒にはついたのかもしれない、という考えと、
弱々しい老賢者のランプのイメージを重ねると、
もろもろ近いような気もするし、それぞれ全く別なような気もする。
切断の残滓としての極限の自我。その覚醒からの、統合。

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体系化されそうになったら、
ニーチェ的リセット。
星座を読むには、まだ、星が、揃っていない。
追記/補足を読む

社会の断片 

どうしても治らない欠点を持っている人。
その欠点を自ら口にして周囲に理解や配慮を請う人。
そういうことを口にする人が許せない、という欠点を持った人。
人の欠点を見つけたら、そこを攻撃せずにはいられない、
という欠点を持った人。

つくづく、生きていくのは難しい。

タロットカードお焚き上げ 

タロットカードを買ったのはいつだったろうか。

デザインは俗に言う「ブザンソン1JJ」。記憶を辿ると、小学校末期か、中学校初期だった。
どこで買ったか忘れたが、小中学生が近所から買って来たのだから、特に珍しい品物ではなかったろう。
最初に購入した当時の、高級な木のような、なんとも言えない不思議な香りをよく覚えている。
中学校2年か3年か忘れたが、文化祭であまりにも多くの人々を占って、
独特なめまいに陥って倒れた時の、目の前が深いオレンジ色のようになってみるみる昏くなっていく質感も、よく覚えている。

高校になっても、大学になっても、社会人になっても、
使い慣れたそのタロットをひたすら使い続けた。
自分を占うことは禁じている人も多いようだが、
私には自分の人生の諸問題も、タロットを大いに参考にしていた時期がある。

30代を過ぎたあたりだったか、徐々にタロットカードを使わなくなっていった。
それについて、一応後付けの理由は並べることは出来る。
引っ越しに伴い、女友達に喫茶店に呼び出されて恋占いをさせられるようなことがめっきり減ったこと。
関心が神秘学・心理学に移ったこと。
尊敬している神秘学者の先生から、
「水晶玉で占いが出来る人は、丸くて白い紙を目の前に置いても出来るのではないか」
といった言葉を伺ったこと。つまり、読み手の能力ほどには、媒体は重要ではないこと。
色々理由を並べることは出来るが、要するに「自然にやらなくなった」というのが一番現実に近い。

40代に入ったあたりで、時折、「もうタロット捨てようかな」と思うようになっていた。
ところが、なかなか踏ん切りがつかない。
12~13歳ごろからひたすら、切って、並べて、読み解いてきたカードだ。
約30年間、念と生命を込めてきたカードである。
もういいや、捨てよう、と手にとっても、
手に取った途端に、吸い付くように、たちどころに「自分の体と一体化してしまう」。
自分の手の延長上にそのまま生命を持ったタロットカードがあるのが、ありありと実感される。
これほどまでに念と生命をすり込んだカードを、
燃えるゴミで捨てるのもなんだか忍びない。
じゃあどこかで“お焚き上げ”でもしてもらうか、と思っても、
いつも通りがかる神社の年末年始を見ると、
「お焚き上げは当神社のものだけ」と張り紙が出ている。
これだけ念と生命(要するに四大)を込めた、
シャマニズムとカバラをごちゃ混ぜにして煮しめたような物を、
教会に持ち込むのもなんだか違う気がする。
さてどうしたものか、と迷う状態が、10年ほど続いたろうか。

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今年に入って、一念発起し、
「なんでもお焚き上げしてくれるお寺」をインターネットで見つけ、
電車とタクシーを乗り継いで、行ってきた。
そのお寺の名前は申し上げられないが、
行ってみてまず思ったのは、
「こんなに俗で大丈夫なのかここ」ということ。
明らかに「仏教のお寺」なのだが、
大きな看板と大きな駐車場を抜けて入ると、
中は鳥居だらけで、
小さな鳥居の奥には様々なものが祀られている。
お祭りをやっているビデオを流した液晶テレビが祀られていたり、
ゆるキャラらしき着ぐるみが祀られていたり。
そういう鳥居だらけのそのお寺全体に、
拡声器で大音量の雅楽が流れている。

変なとこ来ちゃったかな、とかなり戸惑うが、
ホームページで謳っていた「なんでもお焚き上げ・物品供養いたします」という説明、
ペットも火葬致します、時計のような金属の遺品もお焚き上げしますと、
写真で立派な炉を公開していたこと、
忙しそうにてきぱきと働く作務衣の皆さんなど、
とにかく遺品やペットなど、通常の神社仏閣が受け付けない供養を
受け付けることに強い経営的意志を感じたこと、
そういう場所だからこそ
「30年念を込め、10年捨てるのを迷ったタロットカード」
などという切実かつ珍奇な物品を受け付けてくれる筈なのだ、
と思い直し、受付に行く。
申込用紙を見てみると、項目に「タロットカード」はないので、
「その他」に印をつけて、受付に渡す。
受付の女性にタロットを入れた封筒を渡すと、
少し戸惑って「あの、中はどのような」と訊いてくる。
「タロットカードです」と言うと、女性達で相談し、
「その他」として受け付けてくれることになる。
私はてっきり、その場でお焚き上げするところを見られると思っていたのだが、
今日はやりません、という。
「いつ、どのようにお焚き上げして下さるのですか」と訊くと、
2~3日中に、読経と共に、確実にお焚き上げ致します、と言う。
ここまで来た以上、それを信じるしかあるまい。

タロットカードを渡し、料金を支払い、
拝殿で指定されたマントラのような口上を述べて拝み、
帰りはバスで帰ってきた。

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2~3日経った夕暮れ時、
道を歩いていた際に自分の身に起きたことを、
言語化するのは非常に難しい。
どこか比喩めいた描写にせざるを得ないし、
こういった経験のない人に正確に伝わるかどうか、わからない。
そして、「私も同じ体験をした」という人が現れたとしても、
その人が本当に私と同じ体験をしているのかも、
私にはわからない。

道を歩いていたとき、私は突然、
「タロットカードが自分を取り囲む」
とでも言うような体験をした。

強いてたとえるならば、
親しい人や親しかった動物が世を去った後、
唐突に非常にありありと“そこにいる”と実感するような、
親しみ深い体験。あれに近い。
が、そういう時のような「相手の親密な感情が流れてくるような感覚」はない。
あくまでも、ついこの間まで、ひとたび手に持てばたちどころに
「自分の一部」となるまでに念と生命をすり込んだタロットカードが、
私を取り囲んで、ありありと、先方の感情なしに、「在る」。
自分の延長であり、自分の外界への延長であると同時に、
外界からの自分に対する延長というか、ある種の贈り物であるかのように、「在る」。
(このへんは意味が取りづらいと自分でも思う。言語化が難しい。)

私はこの体験をしながら、
ああ、確かに今しがた、
タロットカードは“適切に”炎と共に地上での形を解消し、
そして今、自分の周りに適切に「在って」くれているのだ、
私の行動は、あれで正しかったのだ、という確信を得た。

とりわけ、ひときわ大きく見えたタロットカードが、
9番「隠者」であったことは、
私にとって意義深いことであった。
内面であり、同時に物質でもあった理念が、
いまや物質であることをやめ、
外界から私を囲んでいる。
そのひときわ大きいものが、「老賢者」。

この深い意味の実感、あるいは実感の意味を、
私は今でも言語化出来ずにいる。

そもそも、ここから先は言語化不可能な領域なのだろう。

そして人生は続く。
追記/補足を読む